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人民に心を置き、改革を実践——福建時代の習近平

2017-10-17      



鼓浪嶼からアモイ島を眺める

 

 「人生の素晴らしい青春期を私は福建で過ごしました」と、習近平主席は何度も公の場で自らの福建に対する感情を表明している。「私は1985年福建にやって来て仕事をし、特区のアモイ、山岳地帯の寧徳、省都の福州と省委員会政府で17年半仕事をし、福建の改革開放の波の勢い、日々変わりゆく姿を自ら体験し、福建の多くの人々と厚い革命の友誼を結びました」。



呉屯郷大渾村

 

潮の先頭に立つ――改革開放の試行実践

 「1985年、私は仕事で福建にやって来て、福建省で17年半仕事をし、アモイがその初めての場所でした」、「今日のアモイは美しいエコなガーデンシティでもあり、人と自然が調和・共生しています」と、201793日、習主席はアモイで開かれたBRICs諸国商工フォーラムの開幕式で基調演説を行う中で、彼はアモイの「広告」を思い入れたっぷりに語った。

1985年、習近平は河北省の小都市である正定県から東海に臨むアモイ市の副市長となった。1990年、福州市党委員会書記に着任した後、習近平は福州経済の対外開放度をさらに高め、福州の対外開放都市と馬尾開発区を中心とし、閩江河口両岸の大福州「金三角」開放地帯をつくり上げ、逐次福建東北部にも広げてゆくことを主張した。

199442日、習近平は福州市対外開放拡大・外資誘致工作会議の席上で、対外開放は福州経済発展の強大な動力であり生命線であることを強調した。福州の位置は対外開放の道を必ず歩まねばならないことを運命づけていた。

彼は「福州が開放拡大・外資誘致においてこれほどの成績をおさめたのは、おもにわれわれには参照できる他人の経験がなく、簡単に真似できる他人の方法がなかったからであり、出発する教条がなく、教条主義的に中央精神を理解せず、実際の状況から出発して自分の道を歩み、自己の特色を形成したからだ」と語る。

福建での在任期間中、習近平は思想や体制による大きな阻害を打ち破って、福建の国有企業改革を推し進めた。彼は6年間で7回普江に行き、何度も調査研究を行った後、「普江経験」を総括して、県域経済発展の方向を提起した。彼は自らの手で集団林業権制度改革を起こし、導いて、食品汚染対策を足がかりとして、部門の垣根を打ち壊して、畑から食卓までの全過程の監督管理システムを打ち立てた。


 

2106412日、アモイ工業博覧会及びロボット博覧会

 

貧困からの脱出――一般大衆への深い思い

「精励して良く治め、発奮して強くなろうとし、中国の繁栄を己の任務とし、できるだけ短時間で国家全体を貧困から脱出させ、できるだけ短時間で中国を先進国の列に入れることが、より緊迫し、より実際的な思想と行動である」と、習近平は『貧困からの脱出』あとがきに記している。

1988年、習近平は寧徳の党委員会書記に任じられた。寧徳は福建省東部の丘陵地帯にあり、インフラは極めて薄弱で全国18カ所の集中貧困地域の一つであった。習近平は寧徳に1年11カ月おり、基本的にすべての郷鎮を一通り巡った。当時道が通じていなかった4つの郷のうち3つの郷にも彼は行った。

寿寧県下党郷に調査研究に行った時のことは、彼の記憶にいまだ新しい。寧徳から寿寧には、一日中山道を車に揺られてようやく到着した。下党郷に行くために、さらに草をかき分け、山を越え、川を渡った。「郷の党委員会書記はなたを手に持って前を切り開き、われわれは各自竹竿を持ち、川沿いに歩いて行った。彼はこうすれば少しは近いと言った。その場所はあまりに辺鄙で行きにくいため、上級幹部が行くことは稀で、その地の委員会書記で行ったのは私が初めてで、県の委員会書記も私たちの先遣隊として行ったのが初めてだった」と彼は回想している。

福建の一部、特に東部の貧困地区は、山で柴を刈り、海で魚を獲って生活している人が多く、おんぼろのかやぶき屋根の家や「連家船」に住み、居住条件はとても劣悪で貧しい生活を送っていた。

 「連家船」に乗っている漁民は、小さな木の船を家としてずっと水上で生活しており、定まった住所もなく、極めて貧しい人々である。彼らはずっと船の上で暮らしているため、体が小さく、足が内側に歪曲し、社会的な蔑視も受けており、彼ら自身が卑下した心理状態にあった。彼らの状態を見て、習近平はとても心を痛め、彼らをずっとこのまま生活させておくわけにはいかないと考えた。

1997年、習近平が福建省党委員会副書記に就任したとき、省政治協商委員会が提供した調査研究レポートに、福建省で多くの村民がいまだかやぶき屋根の家に住み、非常に劣悪な生存状態にあると書かれたものがあった。習近平はそれを見て大いに触発され、関係部門を招集して研究会を開き、グループを率いて福建省東部沿海地区や山岳地帯で特定テーマ調査研究を行った。戻った後、省委員会に報告書を提出し、早急に「かやぶき屋根」や「連家船」の問題を解決すべきだと提案した。

1998年末、習近平はさらに福安で「連家船民」の上陸定住現場会を招集した。数年の苦しい努力を経て、21世紀初めには「かやぶき屋根」や「連家船」に住んでいる人々は福建省では基本的に消滅し、数万人が風雨にさらされる生活に別れを告げ、安定した生活を送るようになった。

「政府の前に置かれた『人民』の二文字をしっかり頭に刻む」「心の中にはただ群衆だけがあり、何事も人民のために行うことで初めて群衆の心からの支持を得ることができる」「職務の高低にかかわらず、すべて人民の公僕であり、群衆の生活の安定をいつでも心にとどめておかねばならない」……。福建において、習近平と共に仕事をした幹部はみな、『人民』の二文字が、習近平が最も多く用いた言葉であると語っている。

 

長汀での経験――良い生態系が後世の幸福に

 福建省西部の小都市である長汀は、革命の旧地、紅軍長征の出発地の一つで、中国南方の赤土地帯にある表土流失問題が最も深刻な県都の一つで、福建で最も表土流失の歴史が長く、面積が広い場所である。

19991127日、福建省党委員会副書記で省長代理を務めていた習近平は、長汀に表土流失対策の調査研究にやってきた。遠くに赤土が露出した山肌を見たとき、彼の表情は引き締まった。

20002月、「長汀の重度表土流失地区を重点とする表土流失総合対策」が全省で15件の人民のための実務プロジェクトの一つとされ、毎年省クラス関係部門から1000万元の資金が提供されるようになった。

20011013日、習近平は再度長汀に表土流失対策のためにやって来た。彼は河田世紀エコパークを訪れ、2000年春に彼が寄付したクスノキが青々と葉を茂らせているのを見て、嬉しそうに肥料と水をやった。2004610日、長汀の人々はすでに浙江省に赴任していた習近平に、カゴいっぱいの楊梅(ヤマモモ)を人に託して贈った。この楊梅はかつての表土流失地域で採れたものだった。

10年余りの辛い努力のすえ、今では福建省の森林カバー率は長年続けて全国一を誇るようになり、全国で唯一の水と大気、生態環境のすぐれた省となった。

長汀の表土流失対策を積極的に唱え、全力で推進したことは、習近平のエコ文明に対する注目の一面を示すものに過ぎない。長汀から全省へ、いかにしてすぐれた生態という強みをすぐれた経済の強みへと転換させ、良好な生態によって子孫代々恩恵を受けることができるようにするかが、彼の未来を見据えた思考と実際的な政務の目的であった。早くも2000年に、省長であった習近平はエコ建設の戦略構想を打ち出している。2002年、福建省は全国初のエコ省モデル省となっている。

福建というこの情熱に満ちた熱い土地の上で、習近平は純潔で善良な心をもって、17年半もの間奮闘し、改革・開放・発展・党の建設などの一連の重大分野で、理論と実践という二つの探索において極めて豊富な成果を得て、福建でのこの歳月は習近平の国政の重要な理論・実践の源となったのである。

 

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