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紙漉き名人 周東紅

2017-07-25      



                             周東紅さん 


 1985年の夏、安徽省の自然の美しい小さなある村で、18歳の少年が宣紙の製紙工場で1週間働いた後、こっそりと家に逃げ帰っていた。腰も足も痛み、両手は長時間水につけていたために水膨れができ、もうやりたくないと思ったのだ。彼はそのとき、自分が将来、紙漉き水槽のそばで30年余りを過ごすなんて思ってもみなかったことだろう。さらに、30年余り後の今日、自分の技術が「大国工匠」として認められるとは。

 書道は中華文化における芸術の至宝であり、宣紙はその芸術の一端を担うものとなっている。宣紙の紙漉き技術は中国の製紙技術の宝といえ、原料採取から完成まで108段階の手順があり、その期間は3年にも達する。紙漉き名人の誕生にも、とても長い年月と努力が必要とされる。

 

逃げ帰った見習い職人

 周東紅のふるさとは丁家橋鎮というところで、村が属する県は宣紙の原産地であり、盛んに宣紙が生産されていた。19858月、18歳になった周東紅は仕事を探しており、おじさんの紹介で宣紙を生産する工場へとやって来た。

 おじさんは彼に宣紙づくりの工場を見学させた。紙漉き場に来た時、この若者はそれに引き付けられた。紙液が入った水槽の両端に2人の紙漉き職人が立ち、彼らのうち一人が竹簾の片側を持ち、紙液の水槽の中で右に左にゆすって紙を掬い上げ、その時間は十数秒ほどだった。「仕事場はとても涼しく、仕事も簡単そうで、あっという間に一枚の紙ができたので、当時の私は、じゃあこの仕事をやろうと思ったのです」と、周東紅は自分の当時の幼い考えを回想し、笑みをもらした。

 しかしすぐさま、その簡単に思えた仕事がまったく簡単ではないことを知った。彼は毎日紙液の水槽のそばに十数時間立ち続け、両手は長い間水に浸しているために水膨れができて、とうとう耐えきれなくなり、一週間後こっそりと家に逃げ帰ったのだった。家に帰っても本当のことを言うことができず、工場が休みになったといってごまかした。

 一週間後、工場に一向に現れない周東紅を探しておじさんが家にやってきて、母親にばれ、彼はこっぴどく叱られた。紙漉きを学ぶ前にも木工を半年習ったことがあり、それもあまりに辛くてやめてしまったのだ。周東紅は母親に、「この仕事は木工よりも大変で十数時間も立ち続け、手が水膨れだらけになってしまう」と訴えた。母は、「あんたは、これも嫌、あれも嫌って、いったい何がやりたいの」と言った。

 周東紅は他の人がやっているのにどうして自分はできないのだろうかと考え、宣紙工場に戻ることにした。


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