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馮翠玲:春風が雨になり人の心を温める

2017-11-01      文=胡周萌 写真=陳建

 
馮翠玲

 

天津大学薬物科学と技術学院(以下薬学院と略)の教室棟前で、あなたは黄色い自転車に乗って通勤する党委員会書記の馮翠玲に出くわすかもしれない。彼女はいつでも微笑みを浮かべ、話す口調は柔らかく、しかしその眼差しには終始ゆるぎないものがあった。2003年以降、馮翠玲は崩壊寸前だった薬学院を困難から救い出し、生気を取り戻させた。彼女は二人の外国籍院長と常に調整を繰り返し、暗黙の了解をつくりあげ、共に学院の国際化と改革を安定的に推進させた。現任のアメリカ籍の院長ジェイ・シーゲルは彼女のことを「最も頼りになるパートナー」と言う。

馮翠玲は「一人の思想は行動に反映されます。共産党員は党の宗旨が要求するように、全身全力で人民のために奉仕しなければなりません」と語る。

 

改革を支える

学校の人事処から薬学院党委員会書記に転じた翌日、馮翠玲はのっけから衝撃を受けた。その時院長であった趙康が天津大学から離れるというのだ。趙康は長期的にアメリカで仕事をしており、2001年に帰国して薬学院を創設した。3年の間に学院の党政責任者と経営理念の違いで多くの摩擦があったため、さまざまな仕事が滞っていた。

馮翠玲は趙康の改革への熱意を知っていたため、彼に「薬学院はあなたがつくったもので、規模はまだ小さく、改革の実施は容易だ。別の学校に行けばもっと実現は難しいだろう。私にもう少し時間をくれれば全力であなたのために行政方面の仕事をするので、あなたが私とは協力が出来ないと思ったときに去っても遅くないのでは?」と言った。

この後、馮翠玲は相手の立場に立ってものを考え続け、すぐに彼の信頼を得て、学院も安定してきた。彼女は先生や学生の間に深く入り込んで調査研究を行う一方で、院長と改革案についての話し合いを続けながら、四方を駆け回り、学校の各部門から外国専家局、ひいては教育部まで折衝に出かけた。彼女の努力のもとで、国際化テスト大学として学院は博士・修士課程の全科目の英語による授業を実現させ、学部生の実践課程もどんどん増え、研究生には実験室移動制度を実行し、指導教官と学生の相互理解を深め、互いに選択できるようにした。教授陣構築のうえで、薬学院は極めて大きな自主権を得て、教師は終身雇用制から考査制となり、その考査も年度報告の形に改めた。

200112月に馮翠玲に悪性腫瘍が発見され、中期の乳腺ガンと診断された。化学治療を一年続け、回復に向かったとき、薬学院再任の知らせを受け取った。馮翠玲は「学校の指導者が私を書記にと決定してくれ、私を信頼し、私に希望を抱いてくれたのです」と語る。2011年、ガンの再発が分かり、彼女は病魔と闘いながら仕事を続け、化学治療のために抜けた頭髪をかつらで隠しながら出勤した。彼女はそれでも温かい微笑を浮かべて仕事をした。



 

 

無言で人心を温める

 2013年、新しい院長ジェイ・シーゲルを迎えるため、馮翠玲は彼がいたチューリッヒ大学に以前に考察に行ったときの写真をもとに、シーゲルの好きな色や構造を分析し、彼の新しい事務室を設計した。馮翠玲は「シーゲルは中国語ができないので、中国に来たばかりの頃は疎外感を感じると思いました。歓迎され、尊重されていると彼に感じさせることで、私がパートナーとしてうまくやっていける、真剣であるということを感じとってほしかったのです」と彼女は語る。

 新しい院長が着任すると、薬学院は大々的に外国籍教師を招聘し始め、一年目で10余名が新たに着任し、馮翠玲にとって「とても大きなプレッシャーとなりました」。あるとき、一つのことが彼女に大きな打撃を与えた。ある先生が着任してかなりの日数がたつのに、事務室にゴミ箱が来なかったというのだ。馮翠玲はすぐさま事務会議を開き、外国籍教師の受け入れ手配について新たに確認をし、空港へのお迎えから事務室の配置、連絡簿や生活指導処などの細かなところまでぬかりがないよう準備させた。

 薬学院の教職員数は80人近くにのぼり、そのうち約半数が外国籍教師で、18カ国・地域からやってきた。アメリカ籍のマーク・オルソン教授は「馮翠玲の仕事はとても細かく、中国に仕事に来て本当によかった、嬉しいと感じさせてくれます」と語る。

 新入生の学業に関する悩みや生活における困難を助けるために、薬学院では率先して全校で指導教授制、学長制をとり、先生1人につき2~3名の学生をつけ、専門的に指導や交流を行わせ、高学年の優秀な学生代表を一人ずつ新入生宿舎につかせ、学習と生活に関する提案を提供させている。成績が伸び悩む学生に対し、馮翠玲はより多く注目し、補導員や教務員と共に彼らの授業選択を助け、彼らが自信を持つよう励ました。

 ここ数年、薬学院では学業問題を理由に退学する学生は一人としてなく、就職率も100%を保ち続けた。馮翠玲は「どの学生に対してもわれわれは指導し、誉め、尊重し、信頼するということをしています。どの人にも平等に希望を与えているのです」と語る。



 

模範の力

 1964年、馮翠玲は遼寧省の小さな山村に生まれた。彼女が小さいとき、父は村の共産党支部書記をつとめていて、いつも村の中のもめごとの処理をしていた。母が人の恨みを買わないかと心配すると、父はいつでも、「われわれ共産党は『真剣』という二文字を最も大切にしているんだ」と言った。小学校に通っているとき、馮翠玲は毛主席の追悼会でふだんはとても厳格な父がお悔やみの言葉を言いながら、涙をさめざめ流しているのを見た。このとき彼女は初めて父の涙を見た。馮翠玲は「父の毛主席、党に対する愛は言葉では表せないものでした」と語る。

 1982年、馮翠玲は天津大学に入学した。金曜日になると、班の主任は決まってみかんとおやつを手に宿舎に現れ、みんなといっしょに一週間の学習や生活の状況について語り合った。馮翠玲は「われわれの班主任は党員で、彼はわたしたちを自分の子供と同じように面倒を見てくれました。そのとき私は党員とは、自分の時間と精力を注いで人に奉仕するものなのだと思いました」と語る。大学二年のとき、馮翠玲は班の中で初めて入党申請を出した学生となった。

 過去14年、馮翠玲は薬学院党委員会を率いて、最初の支部から現在の10の支部になるまで、計400名以上の党員を育成してきた。現在、全院の教授と学生の中で党員は約170名おり、彼らは基本的サービスの中でリーダーとしての役割を果たしている。

 学院党支部の活動はしばしば外国教員をも招待し、たとえば周恩来鄧記念館、平津戦役記念館などの参観を行っている。「二学一做」学習教育活動(党の党規を学び、党の一連の重要講話を学び、適した党員を養成すること)を行ったとき、馮翠玲はシーゲル院長のために『習近平 国政運営を語る』の英語版を取り寄せた。馮翠玲は「シーゲル院長は長期休暇の間に読んでくれ、『一帯一路』提議を称賛してくれました」と語る。

 さきほど、馮翠玲は学校の古くからの党員の座談会に参加した。「古い党員たちの憂国憂民の気持ちに私は感動しました。彼らは私が第十九回党大会に参加することを知り、皆の意見を党中央に寄せてくれと、多くのことを私に託しました」と彼女は語る。

 

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