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中国共産党員:40年の改革開放の引率者

2018-02-11      文=Ruan Yuan

 

編集者より:今年中国は改革開放政策実施40周年となる。40年にわたって、中国共産党の指導の下で、中国は豊かに、強大になった。中国人は積極的に改革に身を投じ、思想を解放し、幸福を求めている。『中国画報』「人物」コラムでは、中国の40年にわたる改革開放の過程の代表的な人物を数回にわたって掲載する。

 

経済特別区から始まる物語

1970年代後半は、中国にとって、間違いなく転換のカギとなる時期であった。十年続いた「文化大革命」が終わり、いったい中国はどこへ行くか? 中国の社会主義事業は曲折と挫折を経た後、どうやって前に向かって発展していくのか? これは中国と中国共産党員の前に置かれた重要な問題となった。

1978年、中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議が開催された。この会議では、1979年から全党の重点を社会主義現代化の建設に移すという戦略が決められ、中国は今後、改革開放と社会主義現代化建設の歴史的新時代に入ることを示した。中国の改革開放の総デザイナーである鄧小平を代表とする中国共産党員は中国の特色ある社会主義建設の新たな模索を始めた。

1979年、広東省省長である習仲勲は中央工作会議に参加した際、広東省は香港とマカオに近く、華僑が多いという有利な条件を充分に利用し、積極的に対外経済技術交流を展開するべきであると提起した。福建省はアモイ)に輸出加工区を建立する要求を提出した。鄧小平はこのような提案を大いに賛成・支持した。しばらくして、中国共産党中央委員会と国務院は広東、福建省に対し、特殊な政策と柔軟な措置を実施し、広東省の深圳、珠海、汕頭、福建省のアモイなどに輸出特別区の設立を試みることを決定した19805月、この四つの輸出特別区は経済特別区と改称された。

経済特別区の建設という大背景の下に、多くの思想の殻を突破し、改革する勇気をもった中国共産党員が現れ、改革開放の先鋒となった。1978年末、広東省で、改革開放の最初の実践者」といわれ、当時中国交通部香港招商局常務副董事長を務めていた袁庚が、宝安県蛇口半今の深圳市南山区管轄内)に蛇口工業区を設立した。この中国大陸初の輸出加工工業区で、共産党員は大胆な住宅制度改革、人事制度改革、分配制度改革などを含む一連の画期的な意義を持つ政策の試行を行った。福建省で、「福建の改革開放事業の開拓者・先鋒」といわれ、当時、中国共産党福建省党委員会書記をつとめていた南は、大胆に工、商流通、物価などの方面の改革を模索し、福建省の都市改革を盛んに実施し、企業への規制を緩和することを提起した。その後の1983年、中国共産党中央は海南島に対して経済特別区の優遇政策の実施を決めた。19884月、海南省と海南経済特別区成立した。

これよりのち、中国改革開放の幕が全面的に開かれ、逐次沿海地区から内陸部へと拡大した。全体からいうと中国の対外開放は四つの段階を経ている。経済特別区の設立は第一の段階となった。その後、逐次沿海部の港岸都市が開放され、沿海経済開放が設立された1990年代以降、長江沿岸及び内陸部と辺境都市が開放された1993年までたえず整備され続け、中国には南から北まで、東から西まで、逐次推し進められた全方面的な対外開放構造が基本的に形成された。

 

思想の大解放

中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議は中国の政策の重心を経済建設へ転換することを確定し、1980年代初めまでに中国の経済特別区はすでに成立していたが、市場経済と計画経済の2本立てという道の選択に対しては、1970年代末から1980年代中後期までの相当長い間、かなり大きな論争が続いた。

1979年、鄧小平はアメリカからの来訪者と会見した時、社会主義も市場経済を実施してもよいという観点を提出した。1992年、鄧小平は南方視察談話でさらに明確に「計画の方が多いか、それとも市場の方が多いかということは社会主義と資本主義の本質的な違いではない」と指摘した。

中国共産党が提出した思想解放、事実に基づいて真実を求めることは相対的にマクロの方面に現れるだけではなく、さらに人々の日常の仕事や生活に具現される。1970年代末、広東では香港への逃亡民がとても多かった。勲が調査を行ったところ、深圳と香港は川1本の隔たりしかないものの、大陸の農民の1人当たりの年間収入は134元で、香港の1人当たりの年間収入は1.3万香港ドルであることが分かった。「われわれがあまり民衆の生活を良くしようとしておらず、良い政策により彼らの利益を守ろうとしていなかったことが責められるべきである」と習勲は指摘した。その問題を解決するポイントは根本的な解決をはかることであり、生産の発展、人々の生活を良くすることである。袁庚は「時は金なり、効率は命なり」というスローガンを提起した。市場経済観念の導入は、当時の中国社会に巨大な衝撃と影響をもたらしたことは確かである。

21世紀に入り、中国経済の発展にしたがって、中国人は経済利益に関心を持ち、社会の富に注目するようになった。この転換は経済社会の進歩による結果であり、同時に物質主義と享楽主義をもたらした。このような背景の下で、中国共党はさらに思想解放を重視し、精神文明建設強化の重要性を強調した。40年にわたり、思想解放と改革過程はいつでも互いを激しく揺り動かし、「思想解放―理論創新―改革突破」が中国のそれぞれの段階を切り開く必然的な選択であったと言えよう。

 

共産党員も経済発展を行える

経済の活性化、思想解放の両方面から手をつけ、中国は40年の改革開放の中で、巨大な成果を上げた。アナリストによると、198090年代、世界の政治が動揺・混乱する時期に、中国は中国共産党員の指導の下で、改革開放に力を入れ、豊かな成果を収めた。中国の40年にわたるしだいに進歩する変革は、西側諸国が旧ソ連に提案した「ショック療法」と鮮やかな対比を示した。

改革開放のタイミングは当時の世界の大趨勢と環境に順応したものであった。中国は積極的に国社会に溶け込み、1980年には国際通貨基金(IMF)へ加盟し、世界銀行にも加入した。世界的に1970年代末からコンピューター化とコンテナ船が猛スピードで発展するなど一連の経済革命の成果が現れ始め、中国もまた逐次対外開放をすすめ、リアルタイムにその一連の経済革命による成果を国内へ導入した。

世紀が変わった後、国際競争に直面した中国は、技術知識の獲得や、グローバル企業創立の強化を始めた。中国の改革開放の成功は経済面だけではない。現在、中国は積極的にグローバル成長にプラスエネルギーを注ぎ込んでいる。世界に中国は「新型の国際関係の構築、人類運命共同体の構築を推進する新たな道のり」を提案している。

1978年、中国共産党員の指導の下で、中国は史上前例がない改革をはじめ、これは疑いもなく人類発展史上で最も成功した国の発展例となる。これにより、中国は一歩一歩世界舞台の中央に近づいてゆくだろう。中国共産党員の現代中国の運命を決する時の正確な選択、さらにその後の選択に対する堅持がなければ、これらすべてが想像できないことであっただろう

 

 

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