中国画報—蔡瑞康:人民軍軍医の技と心

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蔡瑞康:人民軍軍医の技と心

2018-02-12      文=段崴・王琳    

  • 如今,“80后”的蔡瑞康仍闲不住,在对皮肤疾病的深入理解和对中药、西药作用充分认识的基础上,他逐渐尝试成方新用、老药新用以及药物应用范围的扩大。 摄影 郭莎莎人民画报W020180110532087972909.jpg

    蔡瑞康  写真 人民画報社 郭莎莎

  • 20世纪50年代初,刚刚从“四医大”毕业后参加工作的蔡瑞康。W020180110532090213434.jpg

    1950年代初め、中国解放軍第四軍医大学を卒業して職場に入ったばかりの蔡瑞康。

  • 蔡瑞康(右)在南方边境前线猫耳洞内为战士治疗皮肤病。W020180110532091016502.jpg

    1970年末、中国の南方国境付近の戦争前線の兵士の皮膚病の治療へ赴く蔡瑞康(右)

  • 2008年汶川地震发生后,蔡瑞康在救灾前线为解放军官兵和受灾群众服务。W020180110532091618872.jpg

    2008年四川省汶川大地震が発生した後、災害救助前線に赴く蔡瑞康。

  • 蔡瑞康全家福(摄于1976年)W020180110532092683879.jpg

    蔡瑞康の家族記念写真(1976年)

  • 蔡瑞康兼收并蓄,采用中西医结合的方式治疗皮肤疾病,并研制出了多种制剂。W020180110532094445386.jpg

    蔡瑞康が研究・製作するさまざまの皮膚病調合剤

  • W020180110532094962562.jpg

    白なまず患者のために検査を行う蔡瑞康   写真 人民画報社 郭莎莎

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 2012年に正式に定年退職するはずであった蔡瑞康はいまだ仕事から離れられず、83歳の彼は毎週中国人民開放軍空軍総医院に2日半、診察に出ている。実は彼自身も一人の患者であり、左足の骨の置換手術をしたばかりでまだ休養期間にある。

 医療に長年従事した感想を聞くと、蔡瑞康は、「人民軍軍医は医者であると同時に革命軍人なのです。この体で国に報いたいと思っています」と答えた。

 

使命は天よりも大きい

 1950年代、蔡瑞康は中国人民解放軍第四軍医大学(現在の空軍軍医大学)を卒業し、空軍総医院で仕事を始めた。蔡瑞康はかつて一人の飛行部隊見習い生を治療したことがある。「当時彼はまだ20過ぎで、天疱瘡を患っていました」この病気は今でこそ治療法が確立しているものの、当時の医療条件ではとても厄介な病気だった。患者は全身に潰瘍ができ、さらに緑膿菌に感染していたので、鼻をつく匂いがした。蔡瑞康が自ら彼の面倒を見て、夜は彼の隣の病室に泊まって、問題が発生したらすぐに処置をとれるようにした。半年にわたる治療にもかかわらず、この患者を救うことはできなかった。

 このことを思い出すといまだ彼は心の痛みと無念さを覚える。「それから後、私は学生たちに、うまく治療できない患者にも人道主義的精神で力を尽くす必要があると語るようになりました」

 1970年末から、中国の南方国境付近の戦争が熾烈となった。南方は熱く、環境が悪く、多くの皮膚病が中国軍を悩ませた。蔡瑞康も戦友とともに前線に赴いた。当時、各連隊の陣地は分散しており、治療に赴く軍医たちは山に入って薬草をとらねばならず、その途中には多くの地雷原があった。

 「誰もどこに地雷があるかはっきりと把握しておらず、一人で手探りで進むしかなく、時には敵と遭遇することもありました」と蔡瑞康は語る。「当時は早朝に後方の病院から出発し、昼ご飯を食べる時間があるかどうかも分かりませんでした」。

 一年の間に彼は8つの前線に行き、100余りの塹壕を巡った。細かく薬物試験を繰り返した結果、蔡瑞康と戦友の馬複は皮膚病の原因を発見した。それはネズミによって媒介される陰嚢念球菌による陰嚢癬であった。蔡瑞康は本部組織の専門家にネズミ退治に赴かせ、さらに新型外用薬剤の「1号霜」を研究開発したおかげで、前線部隊の皮膚病は激減し、病気による戦闘要員の減少も抑えることができた。

 2008512日、四川省の汶川で大地震が発生した。その時、蔡瑞康は肺炎で入院していたが、被災状況を知ると、落ち着いていられなくなった。523日、空軍総医院で皮膚病予防専門家チームが組織され、被災地に向かうという情報を聞き、まだ直りかけの状態にあった蔡瑞康は、家族と病院の上司を説き伏せ、その一員となった。

 「被災地の人々は苦しんでいて、私を必要としている場所があるのです」。20日もの間、蔡瑞康と仲間たちは余震が続く中、20余りの被災した村に入り、何万人も診察し、『地震災害後の皮膚病患者予防ハンドブック』などの宣伝パンフレットを緊急編集し、救助にあたっている人たちや被災者に配った。

 

医者の仁徳

 19561957年、蔡瑞康は中央皮膚性病研究所(後の協和皮膚性病研究所)で学んだ。彼は留学から帰国した一部の専門家の皮膚病治療の手段が非常に局限的で、多くの西洋薬の副作用がとても大きいことを知った。当時、難しい症状であった場合、研究所では北方中国医学の大家である趙炳南に診察を頼んでいた。蔡瑞康は中国古来の薬草が患者の症状を好転させ、かつ患者の各方面の機能にも大きな改善がみられることに気づいた。蔡瑞康は大学時代に西洋医学を学んでいたものの、趙炳南に師事することにし、中国医学と西洋医学との結合を試みた。

 1976年、北京市衛生局で「西洋医学医師の中国医学学習班」が組織され、蔡瑞康はさらに南派中国医学の大家である朱仁康について一年学んだ。朱仁康は薬条理や規範を運用し、蔡瑞康は彼を助けて処方を書き留めておき、それを十数冊のノートにまとめ、彼の中国医学はまた一つ上の段階にのぼった。

 大家の先生の診察を知ることで、蔡瑞康は中国の伝統医術をおさめると同時に、彼らの貧しい人々へのいたわりや患者を尊重する心を学び、医者の徳についても学ぶところが大きかった。蔡瑞康は「この2人の中国医学の泰斗は精神と技を共に伝承しており、私は十分に中国医学の精華をくみ取ることができました」と語る。

 皮膚病の治療と研究を50年余り続け、蔡瑞康はつねに中国医学と西洋医学を結合させ、新たな治療手段を開発し、治療効果をより高めた。1980年には空軍総医院に皮膚科が設けられ、45歳の蔡瑞康は初代の主任となった。当時、頑固な皮膚病に対しコールタールを使った薬物が長期的に使われてきており、それは一定の治療効果はあったものの、色が黒く、匂いも悪く、患部へ塗っても吸収が遅く、通気性も悪かったので、患者に不人気であった。蔡瑞康はこの治療方法を改良しようとひそかに決心した。

 4人の医者と小屋一棟、薬を煎じる鉄の鍋一つが当時の皮膚科のすべての財産だった。蔡瑞康の妻の劉新国は薬剤師で、彼女の助けのもとに蔡瑞康は粗末な条件のもとで科学研究を行った。暑いさなかの8月、蔡瑞康はいっそのことと実験室に籠って、お腹が減ったらまんじゅうを齧り、眠くなったら机の上に突っ伏して寝るという生活を続けた。彼と仲間たちはともに現代西洋医学の製薬手段と検査基準を用いて、中国の草薬に対し西洋風の改造を行った。それによってできた試験薬を他人に用いるのをはばかり、自分が使ってテストをし、薬物の皮膚への浸透・吸収の時間や安全性について詳細に記録した。

 その年の夏、蔡瑞康の足の皮膚は基本的に問題だらけとなった。劉新国は心を痛めて「彼は命を縮めているようなものです」と言った。しかしその努力は報われ、茶色がかった黄色をした、匂いも悪くない新薬の開発に成功し、権威部門の検査にもパスした。臨床によりそれは乾癬や慢性湿疹、神経性皮膚炎などに対し顕著な治療効果があることが証明された。

 蔡瑞康は「中国医学と西洋医学の診断や病症弁別および治療法には、どちらがいい悪いではなく、秀でた部分を使えばよい」と考えている。彼のリードのもとで、わずか8年で空軍総医院の皮膚科は小さな診療科目から空軍皮膚病専門センターと全軍皮膚病薬理基地となり、9種類の皮膚病治療機器を研究開発し、そのうち3つは国家特許も取得した。2010年に「蔡瑞康名老中医ワークステーション」が成立した後、蔡瑞康は2名の専門医と3名の博士研究生、5名の修士研究生を育成し、当ワークステーションの名前で40本余りの論文を発表した。

 蔡瑞康は患者の心理治療も重んじている。「中国医学では従来病気になる心理的な7つの要因を認めており、西洋医学の健康観念も単純な生理的健康が心身の健康に移行するとしています。臨床治療の過程では患者の心理的問題を解決する必要があり、説明に注意を払い、患者に病気に打ち勝つという信念を打ち立てなければなりません」と彼は語る。

 彼にとって、患者が金持ちであろうと貧乏人であろうと、年寄であろうと幼児であろうと、親戚であろうと他人であろうと、すべて同じだ。また未来を予測したり、過去を振り返ったりしてはいけないし、あまり自分の利害について考えてもいけない。「病人の悩みを自分の悩みのように感じなければなりません」

 先生が身をもって教えてくれたものの影響を受け、蔡瑞康は自分の学生にまず、どのように皮膚病を直し、どのように顕微鏡を使うかではなく、どのように患者をいたわるかを教える。「医者は各種の選択の中で、なるべく早く問題が解決する方法を探し、患者がもっともお金を使わずに、最も効果的な方法で、もっとも速く疾病を治療しなくてはなりません」

蔡瑞康は言う。「よい医術がなければ病気は治せず、よい医徳がなければ、よい医者になれない」

 

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蔡瑞康:人民軍軍医の技と心

2018-02-12      文=段崴・王琳      

  • 如今,“80后”的蔡瑞康仍闲不住,在对皮肤疾病的深入理解和对中药、西药作用充分认识的基础上,他逐渐尝试成方新用、老药新用以及药物应用范围的扩大。 摄影 郭莎莎人民画报W020180110532087972909.jpg

    蔡瑞康  写真 人民画報社 郭莎莎

  • 20世纪50年代初,刚刚从“四医大”毕业后参加工作的蔡瑞康。W020180110532090213434.jpg

    1950年代初め、中国解放軍第四軍医大学を卒業して職場に入ったばかりの蔡瑞康。

  • 蔡瑞康(右)在南方边境前线猫耳洞内为战士治疗皮肤病。W020180110532091016502.jpg

    1970年末、中国の南方国境付近の戦争前線の兵士の皮膚病の治療へ赴く蔡瑞康(右)

  • 2008年汶川地震发生后,蔡瑞康在救灾前线为解放军官兵和受灾群众服务。W020180110532091618872.jpg

    2008年四川省汶川大地震が発生した後、災害救助前線に赴く蔡瑞康。

  • 蔡瑞康全家福(摄于1976年)W020180110532092683879.jpg

    蔡瑞康の家族記念写真(1976年)

  • 蔡瑞康兼收并蓄,采用中西医结合的方式治疗皮肤疾病,并研制出了多种制剂。W020180110532094445386.jpg

    蔡瑞康が研究・製作するさまざまの皮膚病調合剤

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    白なまず患者のために検査を行う蔡瑞康   写真 人民画報社 郭莎莎

 

 

 2012年に正式に定年退職するはずであった蔡瑞康はいまだ仕事から離れられず、83歳の彼は毎週中国人民開放軍空軍総医院に2日半、診察に出ている。実は彼自身も一人の患者であり、左足の骨の置換手術をしたばかりでまだ休養期間にある。

 医療に長年従事した感想を聞くと、蔡瑞康は、「人民軍軍医は医者であると同時に革命軍人なのです。この体で国に報いたいと思っています」と答えた。

 

使命は天よりも大きい

 1950年代、蔡瑞康は中国人民解放軍第四軍医大学(現在の空軍軍医大学)を卒業し、空軍総医院で仕事を始めた。蔡瑞康はかつて一人の飛行部隊見習い生を治療したことがある。「当時彼はまだ20過ぎで、天疱瘡を患っていました」この病気は今でこそ治療法が確立しているものの、当時の医療条件ではとても厄介な病気だった。患者は全身に潰瘍ができ、さらに緑膿菌に感染していたので、鼻をつく匂いがした。蔡瑞康が自ら彼の面倒を見て、夜は彼の隣の病室に泊まって、問題が発生したらすぐに処置をとれるようにした。半年にわたる治療にもかかわらず、この患者を救うことはできなかった。

 このことを思い出すといまだ彼は心の痛みと無念さを覚える。「それから後、私は学生たちに、うまく治療できない患者にも人道主義的精神で力を尽くす必要があると語るようになりました」

 1970年末から、中国の南方国境付近の戦争が熾烈となった。南方は熱く、環境が悪く、多くの皮膚病が中国軍を悩ませた。蔡瑞康も戦友とともに前線に赴いた。当時、各連隊の陣地は分散しており、治療に赴く軍医たちは山に入って薬草をとらねばならず、その途中には多くの地雷原があった。

 「誰もどこに地雷があるかはっきりと把握しておらず、一人で手探りで進むしかなく、時には敵と遭遇することもありました」と蔡瑞康は語る。「当時は早朝に後方の病院から出発し、昼ご飯を食べる時間があるかどうかも分かりませんでした」。

 一年の間に彼は8つの前線に行き、100余りの塹壕を巡った。細かく薬物試験を繰り返した結果、蔡瑞康と戦友の馬複は皮膚病の原因を発見した。それはネズミによって媒介される陰嚢念球菌による陰嚢癬であった。蔡瑞康は本部組織の専門家にネズミ退治に赴かせ、さらに新型外用薬剤の「1号霜」を研究開発したおかげで、前線部隊の皮膚病は激減し、病気による戦闘要員の減少も抑えることができた。

 2008512日、四川省の汶川で大地震が発生した。その時、蔡瑞康は肺炎で入院していたが、被災状況を知ると、落ち着いていられなくなった。523日、空軍総医院で皮膚病予防専門家チームが組織され、被災地に向かうという情報を聞き、まだ直りかけの状態にあった蔡瑞康は、家族と病院の上司を説き伏せ、その一員となった。

 「被災地の人々は苦しんでいて、私を必要としている場所があるのです」。20日もの間、蔡瑞康と仲間たちは余震が続く中、20余りの被災した村に入り、何万人も診察し、『地震災害後の皮膚病患者予防ハンドブック』などの宣伝パンフレットを緊急編集し、救助にあたっている人たちや被災者に配った。

 

医者の仁徳

 19561957年、蔡瑞康は中央皮膚性病研究所(後の協和皮膚性病研究所)で学んだ。彼は留学から帰国した一部の専門家の皮膚病治療の手段が非常に局限的で、多くの西洋薬の副作用がとても大きいことを知った。当時、難しい症状であった場合、研究所では北方中国医学の大家である趙炳南に診察を頼んでいた。蔡瑞康は中国古来の薬草が患者の症状を好転させ、かつ患者の各方面の機能にも大きな改善がみられることに気づいた。蔡瑞康は大学時代に西洋医学を学んでいたものの、趙炳南に師事することにし、中国医学と西洋医学との結合を試みた。

 1976年、北京市衛生局で「西洋医学医師の中国医学学習班」が組織され、蔡瑞康はさらに南派中国医学の大家である朱仁康について一年学んだ。朱仁康は薬条理や規範を運用し、蔡瑞康は彼を助けて処方を書き留めておき、それを十数冊のノートにまとめ、彼の中国医学はまた一つ上の段階にのぼった。

 大家の先生の診察を知ることで、蔡瑞康は中国の伝統医術をおさめると同時に、彼らの貧しい人々へのいたわりや患者を尊重する心を学び、医者の徳についても学ぶところが大きかった。蔡瑞康は「この2人の中国医学の泰斗は精神と技を共に伝承しており、私は十分に中国医学の精華をくみ取ることができました」と語る。

 皮膚病の治療と研究を50年余り続け、蔡瑞康はつねに中国医学と西洋医学を結合させ、新たな治療手段を開発し、治療効果をより高めた。1980年には空軍総医院に皮膚科が設けられ、45歳の蔡瑞康は初代の主任となった。当時、頑固な皮膚病に対しコールタールを使った薬物が長期的に使われてきており、それは一定の治療効果はあったものの、色が黒く、匂いも悪く、患部へ塗っても吸収が遅く、通気性も悪かったので、患者に不人気であった。蔡瑞康はこの治療方法を改良しようとひそかに決心した。

 4人の医者と小屋一棟、薬を煎じる鉄の鍋一つが当時の皮膚科のすべての財産だった。蔡瑞康の妻の劉新国は薬剤師で、彼女の助けのもとに蔡瑞康は粗末な条件のもとで科学研究を行った。暑いさなかの8月、蔡瑞康はいっそのことと実験室に籠って、お腹が減ったらまんじゅうを齧り、眠くなったら机の上に突っ伏して寝るという生活を続けた。彼と仲間たちはともに現代西洋医学の製薬手段と検査基準を用いて、中国の草薬に対し西洋風の改造を行った。それによってできた試験薬を他人に用いるのをはばかり、自分が使ってテストをし、薬物の皮膚への浸透・吸収の時間や安全性について詳細に記録した。

 その年の夏、蔡瑞康の足の皮膚は基本的に問題だらけとなった。劉新国は心を痛めて「彼は命を縮めているようなものです」と言った。しかしその努力は報われ、茶色がかった黄色をした、匂いも悪くない新薬の開発に成功し、権威部門の検査にもパスした。臨床によりそれは乾癬や慢性湿疹、神経性皮膚炎などに対し顕著な治療効果があることが証明された。

 蔡瑞康は「中国医学と西洋医学の診断や病症弁別および治療法には、どちらがいい悪いではなく、秀でた部分を使えばよい」と考えている。彼のリードのもとで、わずか8年で空軍総医院の皮膚科は小さな診療科目から空軍皮膚病専門センターと全軍皮膚病薬理基地となり、9種類の皮膚病治療機器を研究開発し、そのうち3つは国家特許も取得した。2010年に「蔡瑞康名老中医ワークステーション」が成立した後、蔡瑞康は2名の専門医と3名の博士研究生、5名の修士研究生を育成し、当ワークステーションの名前で40本余りの論文を発表した。

 蔡瑞康は患者の心理治療も重んじている。「中国医学では従来病気になる心理的な7つの要因を認めており、西洋医学の健康観念も単純な生理的健康が心身の健康に移行するとしています。臨床治療の過程では患者の心理的問題を解決する必要があり、説明に注意を払い、患者に病気に打ち勝つという信念を打ち立てなければなりません」と彼は語る。

 彼にとって、患者が金持ちであろうと貧乏人であろうと、年寄であろうと幼児であろうと、親戚であろうと他人であろうと、すべて同じだ。また未来を予測したり、過去を振り返ったりしてはいけないし、あまり自分の利害について考えてもいけない。「病人の悩みを自分の悩みのように感じなければなりません」

 先生が身をもって教えてくれたものの影響を受け、蔡瑞康は自分の学生にまず、どのように皮膚病を直し、どのように顕微鏡を使うかではなく、どのように患者をいたわるかを教える。「医者は各種の選択の中で、なるべく早く問題が解決する方法を探し、患者がもっともお金を使わずに、最も効果的な方法で、もっとも速く疾病を治療しなくてはなりません」

蔡瑞康は言う。「よい医術がなければ病気は治せず、よい医徳がなければ、よい医者になれない」

 


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