中国画報—丁蔭楠:改革開放40年を見届けた伝記映画監督

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丁蔭楠:改革開放40年を見届けた伝記映画監督

2018-04-02      文=王衆一    

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    丁蔭楠

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    『孫中山』のポスター

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    『魯迅』のスチール写真

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    『逆光』のスチール写真

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 中国の改革開放と芸術創作の歩みを同じくする映画監督がいる。その人こそ今年80歳となる丁蔭楠である。

 彼は改革開放の最初の10年に、『春雨潇潇』『逆光』『孫中山』『電影人』などの実験的・模索的意義に溢れる前衛的な作品を発表し、さらに20世紀から21世紀へ向かう過渡期の10年には、中国人物伝記映画の不朽の名作ともいえる『周恩来』『鄧小平』を撮影した。その後、彼はさらに文化界の巨頭である魯迅、啓功の同名の伝記映画を撮影している。

 丁蔭楠の人物伝記作品は、100年にわたる中国の激動の歴史を含んでおり、詩的な映画構造と中国の偉大な人物に対する魂を込めた描写は、世界映画界における中国の伝記映画に強烈な一筆を残すもので、大時代の中で「人民の記憶」をつなぐ重要な映像テキストとなっている。特に彼の最高傑作となった『周恩来』は、『ガンジー』『パットン大戦車軍団』『アマデウス』などの傑作に肩を並べる後世に残る作品を中国にもたらすことになった。

 

情熱世代の大胆な試みとその成功

 丁蔭楠は1938年に天津で生まれ、幼年期に家族の没落のためにまともに学校に通えなかったものの、小さい頃から演劇や映画を見るのを好んだ。1960年代、彼は北京電影(映画)学院に入学し、彼が最も影響を受けたのは、エイゼンシュテイン監督の『戦艦ポチョムキン』とドヴジェンコの詩的映画であった。戯曲や演劇、ソ連の詩的映画の薫陶を受けた丁蔭楠は、しっかりとした芸術的創作の基礎を打ち立てた。

 1978年に始まった改革開放は、丁蔭楠のような「文革」前に教育を受けた監督が相対的に自由に芸術の才能をみせる歴史的チャンスとなった。彼らは後に中国映画の第四世代の監督と言われた。

 1979年、丁蔭楠の初めての映画作品『春雨瀟瀟』が発表された。これは1976年の「四五運動」を描いた映像詩で、彼の感情描写方面の才能を感じさせるものであった。彼の中国第四世代の監督としての地位を確立させたのは、1982年に撮影が完了した『逆光』である。作品の中には随所に彼の表現形式における新たな試みが見られた。造船工場の尽きぬ人の流れのシーンはリズム感を演出し、モンタージュ理論によってつくりあげられた詩的ムードという狙いがおのずと表現されていた。

 「『逆光』で語られているのは、上海のバラック地区の若者が改革開放初期に、ある人は奮闘し、ある人は零落するという平民の愛情物語です。それは実際に私が経験し、体験したことです。私はバラック地区で大きくなりましたので、運命を変えようとして奮闘するというテーマに自然と注目するようになっていました」と丁蔭楠は語る。

 時はまさに第四世代の映画監督がキラ星の如く煌めいていた時代で、丁蔭楠の『逆光』、楊延晋の『小街』、張暖忻の『沙鴎』、黄健中の『如意』は、1980年代初期の時代の潮流を牽引する映画作品となった。

 1984年から丁蔭楠は、意識的に人物伝記映画へとモデルチェンジしていった。当時、丁蔭楠が働いていた珠江映画製作工場の指導者は極めて勇敢で、開放的な思想を持っており、彼が自由に自らの想像力で人物伝記映画『孫中山』を撮影するのを励ましてくれた。

 「前のいくつかの映画でどうやって撮影するかは分かっていましたので、指導者は自由な創作条件をくれ、私が蓄積したものが余すところなく表現できました」と丁蔭楠は語る。

 『孫中山』は全編にわたって詩的リズムと儀式感に溢れており、孫中山(孫文のこと)を中心に、辛亥革命前後の血沸き肉踊る人物群像を描き出した。中でも黄埔軍官学校の士官・学生と広東商団軍の戦闘に写意的技法(情緒の表現を重んじる技法)を用い、戦場での殺し合いもなく、ただ京劇の端役の兵卒たちのような隊列がしだいに硝煙の中に消えてゆく表現と、京劇風の太鼓やリズムで戦争の雰囲気を表現した。

 1989年、丁蔭楠は実験映画『電影人』を撮影し、運命に翻弄され疲弊した映画監督が生存と創作の二重の困難を突破しようとする努力を通じて、その時代の中国映画産業と第四世代の監督が共に直面していた困惑や焦燥を全面的に浮かび上がらせた。『電影人』はその大胆な実験性により、改革開放後のポストモダン映画の一つとされた。これは中国の『8 1/2』だと言う人もいる。

 

『周恩来』から『鄧小平』へ

 『周恩来』は丁蔭楠が1991年に完成させた人物伝記映画の傑作である。

 『孫中山』を撮影していた時、丁蔭楠の位置づけは、「私にとっての孫中山」であった。『周恩来』を撮影した時には、彼はその位置づけを「人民にとっての周恩来」に変えた。彼は文革の10年間という歴史的にもっとも矛盾が突出し、最も複雑で最も厳しい時期を選んで、立体的に周恩来の人格と心情を表現した。

 批判闘争大会において机を叩き、陳毅を守った周恩来、賀竜の遺灰安置式で7回のお辞儀をし、きちんと守ることのできなかった戦友に悲痛な思いを示した周恩来。延安において、現地の幹部に出来るだけ早く旧地区の貧困を解決するようにと話を取りつけ、激昂して酒杯を干した周恩来。新中国成立25周年を祝う招待会で病気をおして人民大会堂にやって来て挨拶を述べた周恩来。クライマックスが一つそしてまた一つと連なり、ラストシーンの長安街に総理を送る人々が詰めかけたドキュメンタリーフィルムに至るまで、一気呵成に描き上げている。

 こうした歴史に直面する勇気と幅広い視野により、この映画は特定の背景のもとで周恩来の人格的魅力を浮き上がらせ、中国人の心からの共鳴を引き出した。統計によれば、全人口ののべ10分の1がこの映画を見たことになる。

 共感を呼ぶことに成功した以外にも、大量の実景や実物の撮影もまたこの映画が成功した重要な要因となっている。『周恩来』の多くのシーンが中南海などの実際の場所でロケされたもので、映画は未曾有の本物の質感を得ている。実物撮影もまた同様で、「たとえば賀竜の遺灰安置式の撮影では、当時のエキストラの多くが実際に賀竜の身辺で警備を務めていた人たちでした。撮影を始めようとしたとき、私が『賀竜元帥が来たぞ』と叫び、小道具さんが本物の賀竜の遺灰箱を捧げ持って入って来るなり、多くの人が泣き始めました」。

 鄧小平の改革開放は丁蔭楠の世代に大きな影響を与えた。1992年、丁蔭楠は『鄧小平』を撮影しようと考え始め、2000年までに台本は何度も手を入れられ、最後にとうとう息子の丁震によって完成された。この作品の撮影過程には多くの想像を超える困難があり、2003年にようやく上映された。

 『鄧小平』は、人民大会堂、中南海、鄧小平宅、毛主席記念堂、故宮、中共中央組織部事務棟などでロケが行われ、一番大変であったのがやはり天安門城楼である。200台あまりの乗用車が天安門北側に停まり、千人余りが天安門の城楼の上にのぼり、新中国成立35周年の鄧小平による閲兵式の場面が撮影された。

 このシーンのリズム感は驚きの効果を生んでいる。静かな鄧小平の家を出発し、鄧小平を乗せた乗用車が静まりかえる景山後街から天安門に向けて走り、午門前から天安門に向かうと、多くの黒い「紅旗」の乗用車がすでに整然と空地に駐車している。鄧小平が城楼に登り、群衆に向かって手を振ると、広場には歓声がわき上がる。全過程がまるで川が大海に注ぐかのようで、ムードがしだいに盛り上がり、最後には無比の気迫がつくり上げられている。

 『周恩来』の中の新中国成立25周年招待会と『鄧小平』の中の新中国成立35周年式典の間の儀式感やリズム感の関連性はとても意味深長だ。1974年から1984年まで、人民大会堂内から天安門城楼まで、周恩来から鄧小平まで、二つの国家の祝典の場面に丁蔭楠は時空の対応性を用い、二人の歴史的人物が内在するロジック関係、受容関係を観客に提示してみせたのだ。

 「『周恩来』撮影から『鄧小平』撮影に至るまでは、ある種の運命によって導かれたものといえます。なぜなら、私の考えでは、周恩来が果たせなかった事業を鄧小平の手によって現実化したからです」と丁蔭楠は語る。

 

文化的自信を取り戻す

 文化はここ百年の中国にとってより深く注目する価値のある分野だ。『鄧小平』以後、丁蔭楠親子はその目を文化的巨頭に向け始めた。

 2005年に完成した『魯迅』は、丁蔭楠作品の二重のモデルチェンジを示している。一つはテーマ選択が政治的人物から文化的人物に変化したこと。もう一つは作品自体が革命をテーマにしたものから文化をテーマにしたものに変わったことだ。そして魯迅はまさに革命性と文化性を併せ持つ人物である。

 丁蔭楠はこの作品で魯迅の人生最後の三年である上海での生活を描いており、死が全編を貫くテーマとなっている。多くの主観的なシーンと超現実風の画面が、死によって引き起こされる生者の心の葛藤を感じさせる。作品冒頭の魯迅が故郷において、自分の小説の中の人物とすれ違うシーンはとても巧妙だ。彼と深く心が結ばれている親友の瞿秋白との語り合いの後眠りに入ると、雪が天から降って来るというシーンも絶妙だ。コルヴィッツの版画展の後、彼は自分が暗黒の水門を肩で支え、若者を光あふれる場所に放つという夢を見て、作品冒頭では、北京師範大学で若者に永遠に現状に満足するなと要求し、民衆のために発言する本当の知識階級の形成を呼びかけ、彼の精神の核心を描き出した。一人の新文化啓蒙者の読書人のイメージが生き生きと表現されている。

 作品中、家庭において魯迅は慈悲深い父のイメージが与えられ、知識人であることと父親であることが完全に溶け合っている。生活を愛する魯迅は、海嬰の存在により、たちまち生き返る。親子が一緒に風呂に入るシーンであろうと、床に寝そべって、上海語で互いを「小僧め」と罵るシーンであろうと、「非情であるのに本物の豪傑である必要はなく、子を可愛がるのに男らしさを捨てる必要はない」という言葉と、それらはすべて重なる。最も心が痛むのは、魯迅の臨終の前夜、霊魂が愛する子のもとにやってきて別れを告げる場面だ。光線が明け方のものに変わり、海嬰が夢の中から目をさまし、下におりてゆくと、すでに魯迅の遺体を大勢が取り囲んでいた。

 2017年、丁蔭楠親子が完成させた新作『啓功』の冒頭の字幕には、「この作品を平凡かつ偉大な先生方に捧げる」とある。今までの伝記の主人公と異なり、書道の大家とはいえ、啓功は基本的に偉業を成し遂げたとは言えず、俗世に生きた一介の平民、普通の教師に過ぎない。

 このような大きな変化はどんな考えに基づくのかと聞かれた時、丁蔭楠は、「100年の歴史という大きな波の中で、教育者は本当に辛抱強く、『中国の背骨』といわれる価値があります。西南連合大学の人々は少しも死を恐れない犠牲精神をもち、中国のために多くの人材を育成してきました。私が啓功を撮影しようと思ったのは、一人の教育者に焦点を当てて民族の未来の希望のありかについて考えようと思ったからです」と答えた。

 演劇評論家の靳飛は、「中国は今日までさまざまな変革を経て来て、伝統文化の力を正確に認識すべきで、文化の伝承もそれ相応の重視を受けるべきです。近代以降、文人の存在は小さくなり、昔のような力を持たなくなりました。そして啓功は一種の回帰、一種の文化精神の大きさを示す代表ともいえる人物なのです」と言う。

 丁蔭楠はかつて、「啓功の一生は、辛亥革命後の中国、民国時代の中国、抗日戦争時期の中国、新中国成立後の中国、文革時代の中国、改革開放以後の中国といったいくつかの中国の重要な歴史的段階をすべてつなげています。啓功を教育した人、啓功が教育した人、一世代そしてまた一世代の人々が教育によってつながり、中国文化は綿々と引き継がれてきたのです」と語っている。

 作品の中で、文革により文化や伝承教育が破壊されたが、伝統文化は書道の魅力により依然としてその災禍のなかでも勝利を得ている。紅衛兵隊長であった劉雨辰は啓功の学生となり、のちに彼自身も教育者となった。こうした逸話は文化の自信、教育の力をとてもうまく表現している。

 この映画は丁蔭楠・丁震親子が二人で監督した作品であり、全体の時代観と方向の把握を親である丁蔭楠が子どもの丁震に指導した痕跡を見て取れる。これ自身もまた、風格化された丁氏映画文化の教育と伝承の過程ともいえる。

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丁蔭楠:改革開放40年を見届けた伝記映画監督

2018-04-02      文=王衆一      

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 中国の改革開放と芸術創作の歩みを同じくする映画監督がいる。その人こそ今年80歳となる丁蔭楠である。

 彼は改革開放の最初の10年に、『春雨潇潇』『逆光』『孫中山』『電影人』などの実験的・模索的意義に溢れる前衛的な作品を発表し、さらに20世紀から21世紀へ向かう過渡期の10年には、中国人物伝記映画の不朽の名作ともいえる『周恩来』『鄧小平』を撮影した。その後、彼はさらに文化界の巨頭である魯迅、啓功の同名の伝記映画を撮影している。

 丁蔭楠の人物伝記作品は、100年にわたる中国の激動の歴史を含んでおり、詩的な映画構造と中国の偉大な人物に対する魂を込めた描写は、世界映画界における中国の伝記映画に強烈な一筆を残すもので、大時代の中で「人民の記憶」をつなぐ重要な映像テキストとなっている。特に彼の最高傑作となった『周恩来』は、『ガンジー』『パットン大戦車軍団』『アマデウス』などの傑作に肩を並べる後世に残る作品を中国にもたらすことになった。

 

情熱世代の大胆な試みとその成功

 丁蔭楠は1938年に天津で生まれ、幼年期に家族の没落のためにまともに学校に通えなかったものの、小さい頃から演劇や映画を見るのを好んだ。1960年代、彼は北京電影(映画)学院に入学し、彼が最も影響を受けたのは、エイゼンシュテイン監督の『戦艦ポチョムキン』とドヴジェンコの詩的映画であった。戯曲や演劇、ソ連の詩的映画の薫陶を受けた丁蔭楠は、しっかりとした芸術的創作の基礎を打ち立てた。

 1978年に始まった改革開放は、丁蔭楠のような「文革」前に教育を受けた監督が相対的に自由に芸術の才能をみせる歴史的チャンスとなった。彼らは後に中国映画の第四世代の監督と言われた。

 1979年、丁蔭楠の初めての映画作品『春雨瀟瀟』が発表された。これは1976年の「四五運動」を描いた映像詩で、彼の感情描写方面の才能を感じさせるものであった。彼の中国第四世代の監督としての地位を確立させたのは、1982年に撮影が完了した『逆光』である。作品の中には随所に彼の表現形式における新たな試みが見られた。造船工場の尽きぬ人の流れのシーンはリズム感を演出し、モンタージュ理論によってつくりあげられた詩的ムードという狙いがおのずと表現されていた。

 「『逆光』で語られているのは、上海のバラック地区の若者が改革開放初期に、ある人は奮闘し、ある人は零落するという平民の愛情物語です。それは実際に私が経験し、体験したことです。私はバラック地区で大きくなりましたので、運命を変えようとして奮闘するというテーマに自然と注目するようになっていました」と丁蔭楠は語る。

 時はまさに第四世代の映画監督がキラ星の如く煌めいていた時代で、丁蔭楠の『逆光』、楊延晋の『小街』、張暖忻の『沙鴎』、黄健中の『如意』は、1980年代初期の時代の潮流を牽引する映画作品となった。

 1984年から丁蔭楠は、意識的に人物伝記映画へとモデルチェンジしていった。当時、丁蔭楠が働いていた珠江映画製作工場の指導者は極めて勇敢で、開放的な思想を持っており、彼が自由に自らの想像力で人物伝記映画『孫中山』を撮影するのを励ましてくれた。

 「前のいくつかの映画でどうやって撮影するかは分かっていましたので、指導者は自由な創作条件をくれ、私が蓄積したものが余すところなく表現できました」と丁蔭楠は語る。

 『孫中山』は全編にわたって詩的リズムと儀式感に溢れており、孫中山(孫文のこと)を中心に、辛亥革命前後の血沸き肉踊る人物群像を描き出した。中でも黄埔軍官学校の士官・学生と広東商団軍の戦闘に写意的技法(情緒の表現を重んじる技法)を用い、戦場での殺し合いもなく、ただ京劇の端役の兵卒たちのような隊列がしだいに硝煙の中に消えてゆく表現と、京劇風の太鼓やリズムで戦争の雰囲気を表現した。

 1989年、丁蔭楠は実験映画『電影人』を撮影し、運命に翻弄され疲弊した映画監督が生存と創作の二重の困難を突破しようとする努力を通じて、その時代の中国映画産業と第四世代の監督が共に直面していた困惑や焦燥を全面的に浮かび上がらせた。『電影人』はその大胆な実験性により、改革開放後のポストモダン映画の一つとされた。これは中国の『8 1/2』だと言う人もいる。

 

『周恩来』から『鄧小平』へ

 『周恩来』は丁蔭楠が1991年に完成させた人物伝記映画の傑作である。

 『孫中山』を撮影していた時、丁蔭楠の位置づけは、「私にとっての孫中山」であった。『周恩来』を撮影した時には、彼はその位置づけを「人民にとっての周恩来」に変えた。彼は文革の10年間という歴史的にもっとも矛盾が突出し、最も複雑で最も厳しい時期を選んで、立体的に周恩来の人格と心情を表現した。

 批判闘争大会において机を叩き、陳毅を守った周恩来、賀竜の遺灰安置式で7回のお辞儀をし、きちんと守ることのできなかった戦友に悲痛な思いを示した周恩来。延安において、現地の幹部に出来るだけ早く旧地区の貧困を解決するようにと話を取りつけ、激昂して酒杯を干した周恩来。新中国成立25周年を祝う招待会で病気をおして人民大会堂にやって来て挨拶を述べた周恩来。クライマックスが一つそしてまた一つと連なり、ラストシーンの長安街に総理を送る人々が詰めかけたドキュメンタリーフィルムに至るまで、一気呵成に描き上げている。

 こうした歴史に直面する勇気と幅広い視野により、この映画は特定の背景のもとで周恩来の人格的魅力を浮き上がらせ、中国人の心からの共鳴を引き出した。統計によれば、全人口ののべ10分の1がこの映画を見たことになる。

 共感を呼ぶことに成功した以外にも、大量の実景や実物の撮影もまたこの映画が成功した重要な要因となっている。『周恩来』の多くのシーンが中南海などの実際の場所でロケされたもので、映画は未曾有の本物の質感を得ている。実物撮影もまた同様で、「たとえば賀竜の遺灰安置式の撮影では、当時のエキストラの多くが実際に賀竜の身辺で警備を務めていた人たちでした。撮影を始めようとしたとき、私が『賀竜元帥が来たぞ』と叫び、小道具さんが本物の賀竜の遺灰箱を捧げ持って入って来るなり、多くの人が泣き始めました」。

 鄧小平の改革開放は丁蔭楠の世代に大きな影響を与えた。1992年、丁蔭楠は『鄧小平』を撮影しようと考え始め、2000年までに台本は何度も手を入れられ、最後にとうとう息子の丁震によって完成された。この作品の撮影過程には多くの想像を超える困難があり、2003年にようやく上映された。

 『鄧小平』は、人民大会堂、中南海、鄧小平宅、毛主席記念堂、故宮、中共中央組織部事務棟などでロケが行われ、一番大変であったのがやはり天安門城楼である。200台あまりの乗用車が天安門北側に停まり、千人余りが天安門の城楼の上にのぼり、新中国成立35周年の鄧小平による閲兵式の場面が撮影された。

 このシーンのリズム感は驚きの効果を生んでいる。静かな鄧小平の家を出発し、鄧小平を乗せた乗用車が静まりかえる景山後街から天安門に向けて走り、午門前から天安門に向かうと、多くの黒い「紅旗」の乗用車がすでに整然と空地に駐車している。鄧小平が城楼に登り、群衆に向かって手を振ると、広場には歓声がわき上がる。全過程がまるで川が大海に注ぐかのようで、ムードがしだいに盛り上がり、最後には無比の気迫がつくり上げられている。

 『周恩来』の中の新中国成立25周年招待会と『鄧小平』の中の新中国成立35周年式典の間の儀式感やリズム感の関連性はとても意味深長だ。1974年から1984年まで、人民大会堂内から天安門城楼まで、周恩来から鄧小平まで、二つの国家の祝典の場面に丁蔭楠は時空の対応性を用い、二人の歴史的人物が内在するロジック関係、受容関係を観客に提示してみせたのだ。

 「『周恩来』撮影から『鄧小平』撮影に至るまでは、ある種の運命によって導かれたものといえます。なぜなら、私の考えでは、周恩来が果たせなかった事業を鄧小平の手によって現実化したからです」と丁蔭楠は語る。

 

文化的自信を取り戻す

 文化はここ百年の中国にとってより深く注目する価値のある分野だ。『鄧小平』以後、丁蔭楠親子はその目を文化的巨頭に向け始めた。

 2005年に完成した『魯迅』は、丁蔭楠作品の二重のモデルチェンジを示している。一つはテーマ選択が政治的人物から文化的人物に変化したこと。もう一つは作品自体が革命をテーマにしたものから文化をテーマにしたものに変わったことだ。そして魯迅はまさに革命性と文化性を併せ持つ人物である。

 丁蔭楠はこの作品で魯迅の人生最後の三年である上海での生活を描いており、死が全編を貫くテーマとなっている。多くの主観的なシーンと超現実風の画面が、死によって引き起こされる生者の心の葛藤を感じさせる。作品冒頭の魯迅が故郷において、自分の小説の中の人物とすれ違うシーンはとても巧妙だ。彼と深く心が結ばれている親友の瞿秋白との語り合いの後眠りに入ると、雪が天から降って来るというシーンも絶妙だ。コルヴィッツの版画展の後、彼は自分が暗黒の水門を肩で支え、若者を光あふれる場所に放つという夢を見て、作品冒頭では、北京師範大学で若者に永遠に現状に満足するなと要求し、民衆のために発言する本当の知識階級の形成を呼びかけ、彼の精神の核心を描き出した。一人の新文化啓蒙者の読書人のイメージが生き生きと表現されている。

 作品中、家庭において魯迅は慈悲深い父のイメージが与えられ、知識人であることと父親であることが完全に溶け合っている。生活を愛する魯迅は、海嬰の存在により、たちまち生き返る。親子が一緒に風呂に入るシーンであろうと、床に寝そべって、上海語で互いを「小僧め」と罵るシーンであろうと、「非情であるのに本物の豪傑である必要はなく、子を可愛がるのに男らしさを捨てる必要はない」という言葉と、それらはすべて重なる。最も心が痛むのは、魯迅の臨終の前夜、霊魂が愛する子のもとにやってきて別れを告げる場面だ。光線が明け方のものに変わり、海嬰が夢の中から目をさまし、下におりてゆくと、すでに魯迅の遺体を大勢が取り囲んでいた。

 2017年、丁蔭楠親子が完成させた新作『啓功』の冒頭の字幕には、「この作品を平凡かつ偉大な先生方に捧げる」とある。今までの伝記の主人公と異なり、書道の大家とはいえ、啓功は基本的に偉業を成し遂げたとは言えず、俗世に生きた一介の平民、普通の教師に過ぎない。

 このような大きな変化はどんな考えに基づくのかと聞かれた時、丁蔭楠は、「100年の歴史という大きな波の中で、教育者は本当に辛抱強く、『中国の背骨』といわれる価値があります。西南連合大学の人々は少しも死を恐れない犠牲精神をもち、中国のために多くの人材を育成してきました。私が啓功を撮影しようと思ったのは、一人の教育者に焦点を当てて民族の未来の希望のありかについて考えようと思ったからです」と答えた。

 演劇評論家の靳飛は、「中国は今日までさまざまな変革を経て来て、伝統文化の力を正確に認識すべきで、文化の伝承もそれ相応の重視を受けるべきです。近代以降、文人の存在は小さくなり、昔のような力を持たなくなりました。そして啓功は一種の回帰、一種の文化精神の大きさを示す代表ともいえる人物なのです」と言う。

 丁蔭楠はかつて、「啓功の一生は、辛亥革命後の中国、民国時代の中国、抗日戦争時期の中国、新中国成立後の中国、文革時代の中国、改革開放以後の中国といったいくつかの中国の重要な歴史的段階をすべてつなげています。啓功を教育した人、啓功が教育した人、一世代そしてまた一世代の人々が教育によってつながり、中国文化は綿々と引き継がれてきたのです」と語っている。

 作品の中で、文革により文化や伝承教育が破壊されたが、伝統文化は書道の魅力により依然としてその災禍のなかでも勝利を得ている。紅衛兵隊長であった劉雨辰は啓功の学生となり、のちに彼自身も教育者となった。こうした逸話は文化の自信、教育の力をとてもうまく表現している。

 この映画は丁蔭楠・丁震親子が二人で監督した作品であり、全体の時代観と方向の把握を親である丁蔭楠が子どもの丁震に指導した痕跡を見て取れる。これ自身もまた、風格化された丁氏映画文化の教育と伝承の過程ともいえる。


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