中国画報—翟永明:白夜の座標として

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翟永明:白夜の座標として

2018-09-19      龔海瑩=文    

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    翟永明(左から2人目)

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  翟永明の創作は「白夜」によってより豊かに開放的となり、「白夜」もまた彼女の独特な性格と詩意によって魂を得た。

 中国・成都にある「白夜」は今年20歳となる。「白夜」は書店、カフェ、バーが一体となった店であり、ロシアのドストエフスキー(18211881)の小説のタイトルにちなんで名づけられた。1998年にオープンし、現在に至るまで「白夜」は一連の文学・芸術および民間映像など分野を超えた文化活動で知られており、成都ないしは国内外の多くの作家・芸術家・文芸青年らを引き付け、彼らにとって「白夜」は成都における最も重要な文化的ランドマークなっている。

 中国の現代女性詩人である翟永明は、バー「白夜」の主人である。彼女は「白夜」と20年もの間よりそってきて、彼女の創作は「白夜」によってより豊かに開放的となり、「白夜」も彼女の独特な性格と詩意により魂を得たのだ。

 

女性詩歌の先駆者

 1980年代、改革開放という社会背景のもとで、中国詩歌界は疾風怒濤式の創作情熱に満ち溢れ、各種の思想・流派は大きな発展チャンスを迎えていた。この期間に出現した多くの優れた詩人の中でも翟永明は、「独特・奇異な言葉と世間を驚かせるような女性の立場から文壇を震撼させ」、中国の女性詩歌の基礎を築き、切り開いた先駆者とされた。

 翟永明は読書を好み、小さい頃から中国の古典文学に親しんで、中学の時には多くの古体詩詞を書いていた。大学卒業後に多くの西洋現代文学にふれ、しだいに独自の現代女性の精神意識を形成し、極めて革新的な現代女性詩歌の風格を打ち立てた。1983年、28歳の翟永明は『女人』という計20首の組詩を書いた。1986年、これが中国で最も影響力のある詩歌雑誌である『詩刊』が主催する「青春詩会特別号」で発表され、一気にその名を上げた。

 翟永明の作品は神秘的な会得や奇異な言葉で、女性独特の運命意識・生命意識と現実の経験を表現したものだ。『女人』組詩の中の多くの句はみな「美しく神秘的」で、たとえば「私の目は二つの傷口のように苦しそうにあなたを見る」「母親の手の上に立った人はみな、最後には誕生のゆえに死去する」などである。

 翟永明は16歳のとき、イギリスの19世紀の女性作家シャーロット・ブロンテの長編小説『ジェーン・エア』によって、「初めて性別という概念について考えさせられた」。年を重ねるにつれ、女性主体の意識が確立し、彼女はとうとう作品の極限を知るようになった。「もし私が『ジェーン・エア』の結末を記すなら、彼女を一人で沼地の中から立ち上がらせ、独りで未来に向かわせるだろう。向かった未来がどうなるかは、誰にも答えは出せない」と語る。

 1980年代、翟永明は『静安荘』『死亡の図案』などを完成させ、これらの詩歌は「女性詩歌」の発展を牽引した。1990年代、翟永明の創作は自分自身の経験の表現から大衆や社会へと向かい、『軽傷の人間、重症の都市』『盲人按摩師のいくつかの方法』などの社会を題材にとった作品を創作した。

 翟永明はずっと詩作への熱意と思考の活力を持ち続け、どの時期にも重要な作品を世に問うている。彼女の最新の作品『黄公望に従い富春山に遊ぶ』という本では、中国古典文化への敬意を示している。最も重要なのは、彼女の詩歌は性別を超えつつあることである。彼女の詩歌言語は、過激で鋭いものから、明朗で飄逸としたものへと変化し、人類の精神的困惑の指摘がより柔軟なものへと変わった。

 「私は女性と関係する詩歌だけを書いているわけではなく、私の大量の詩歌は現実と関係のあるものばかりです」と彼女は言う。

 

現実とつながる窓

 翟永明の変化はかなりの程度、バー「白夜」によるものであるといえる。「白夜」により、翟永明と現実世界はつながり、彼女の生活と詩歌はより広い天地へと入っていった。彼女は「もし白夜がなかったら、私は家で詩をつくる状態にあり、多くの現実的なことがらをあまり理解せず、ひいては無関心であったかもしれず、象牙の塔で詩を書くようなことになっていたかもしれない」と語る。

 1990年代、翟永明は仕事を辞め、米国に居住し、自分と現実生活との関係をより客観的に見るようになった。1998年、とても多くの理想を託した「白夜」が玉林西路で正式に開業した。敷地がわずか50平方メートル余りのこの空間は、中国の著名建築家の劉家琨が設計し、書棚の中の1000冊余りの本はどれも翟永明自身が選んだもので、極めて先鋭的な姿で当時比較的まだ閉鎖的であった成都に出現したのだった。

 中国現代著名詩人の何小竹は、自身の文章の中にこのように記している。「両側の壁には天井に届く高さの本棚があり、テーブルクロスはシルバーグレーで、部屋の真ん中の2つの柱頭もまたシルバーグレーだった。壁には写真と絵が飾られ、これもまた冷たい色調のものであった。外を行く通行人はバーのカウンターに座る人を見ることができた……白夜はまるでパリ左岸にいるような効果を生んでいた」。

 これこそ翟永明が望んだものである。彼女はこの空間で自分の好きな演劇、文学、芸術などの各種の文化芸術活動のさまざまな試行を行い、中国の多くの著名詩人・芸術家・監督、さらには文芸愛好者がここで集うようになり、「白夜」はしだいに独特な性格をもつ、芸術的雰囲気が濃厚な著名な公共空間となったのだ。

 「白夜」は一度、移転したことがある。2008年、「白夜」が10歳を迎えたとき、玉林路から古い成都的な特色をもつ寛窄巷子に引っ越したのだ。この通りはすべて灰色レンガと瓦でつくられた擬古四合院建築で復元されていて、成都の歴史文化名都市保護街区の一つとなっている。新しい「白夜」ではすでにある文化的性格を伝承したうえで、さらに「白夜芸廊」を新設し、長期的に各種の芸術作品を展示し、中国の若い芸術家の推薦を重点的に行っている。

 20年もの間、「白夜」は成都が歴史文化名都市から現代的国際大都市へと変化していく過程を見届けたが、多くの成都人のもともとの生活状態はまだそのままであり「彼らはいまだある種の生活のテンポを緩める能力をもっています」。世界がどのように変化しようとも、翟永明は「決して詩人という身分を捨てない」と言い、彼女は依然としてここにおり、「白夜」の座標として、続けて美と自由を追求してゆくのである。

 

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翟永明:白夜の座標として

2018-09-19      龔海瑩=文      

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    翟永明(左から2人目)

  翟永明の創作は「白夜」によってより豊かに開放的となり、「白夜」もまた彼女の独特な性格と詩意によって魂を得た。

 中国・成都にある「白夜」は今年20歳となる。「白夜」は書店、カフェ、バーが一体となった店であり、ロシアのドストエフスキー(18211881)の小説のタイトルにちなんで名づけられた。1998年にオープンし、現在に至るまで「白夜」は一連の文学・芸術および民間映像など分野を超えた文化活動で知られており、成都ないしは国内外の多くの作家・芸術家・文芸青年らを引き付け、彼らにとって「白夜」は成都における最も重要な文化的ランドマークなっている。

 中国の現代女性詩人である翟永明は、バー「白夜」の主人である。彼女は「白夜」と20年もの間よりそってきて、彼女の創作は「白夜」によってより豊かに開放的となり、「白夜」も彼女の独特な性格と詩意により魂を得たのだ。

 

女性詩歌の先駆者

 1980年代、改革開放という社会背景のもとで、中国詩歌界は疾風怒濤式の創作情熱に満ち溢れ、各種の思想・流派は大きな発展チャンスを迎えていた。この期間に出現した多くの優れた詩人の中でも翟永明は、「独特・奇異な言葉と世間を驚かせるような女性の立場から文壇を震撼させ」、中国の女性詩歌の基礎を築き、切り開いた先駆者とされた。

 翟永明は読書を好み、小さい頃から中国の古典文学に親しんで、中学の時には多くの古体詩詞を書いていた。大学卒業後に多くの西洋現代文学にふれ、しだいに独自の現代女性の精神意識を形成し、極めて革新的な現代女性詩歌の風格を打ち立てた。1983年、28歳の翟永明は『女人』という計20首の組詩を書いた。1986年、これが中国で最も影響力のある詩歌雑誌である『詩刊』が主催する「青春詩会特別号」で発表され、一気にその名を上げた。

 翟永明の作品は神秘的な会得や奇異な言葉で、女性独特の運命意識・生命意識と現実の経験を表現したものだ。『女人』組詩の中の多くの句はみな「美しく神秘的」で、たとえば「私の目は二つの傷口のように苦しそうにあなたを見る」「母親の手の上に立った人はみな、最後には誕生のゆえに死去する」などである。

 翟永明は16歳のとき、イギリスの19世紀の女性作家シャーロット・ブロンテの長編小説『ジェーン・エア』によって、「初めて性別という概念について考えさせられた」。年を重ねるにつれ、女性主体の意識が確立し、彼女はとうとう作品の極限を知るようになった。「もし私が『ジェーン・エア』の結末を記すなら、彼女を一人で沼地の中から立ち上がらせ、独りで未来に向かわせるだろう。向かった未来がどうなるかは、誰にも答えは出せない」と語る。

 1980年代、翟永明は『静安荘』『死亡の図案』などを完成させ、これらの詩歌は「女性詩歌」の発展を牽引した。1990年代、翟永明の創作は自分自身の経験の表現から大衆や社会へと向かい、『軽傷の人間、重症の都市』『盲人按摩師のいくつかの方法』などの社会を題材にとった作品を創作した。

 翟永明はずっと詩作への熱意と思考の活力を持ち続け、どの時期にも重要な作品を世に問うている。彼女の最新の作品『黄公望に従い富春山に遊ぶ』という本では、中国古典文化への敬意を示している。最も重要なのは、彼女の詩歌は性別を超えつつあることである。彼女の詩歌言語は、過激で鋭いものから、明朗で飄逸としたものへと変化し、人類の精神的困惑の指摘がより柔軟なものへと変わった。

 「私は女性と関係する詩歌だけを書いているわけではなく、私の大量の詩歌は現実と関係のあるものばかりです」と彼女は言う。

 

現実とつながる窓

 翟永明の変化はかなりの程度、バー「白夜」によるものであるといえる。「白夜」により、翟永明と現実世界はつながり、彼女の生活と詩歌はより広い天地へと入っていった。彼女は「もし白夜がなかったら、私は家で詩をつくる状態にあり、多くの現実的なことがらをあまり理解せず、ひいては無関心であったかもしれず、象牙の塔で詩を書くようなことになっていたかもしれない」と語る。

 1990年代、翟永明は仕事を辞め、米国に居住し、自分と現実生活との関係をより客観的に見るようになった。1998年、とても多くの理想を託した「白夜」が玉林西路で正式に開業した。敷地がわずか50平方メートル余りのこの空間は、中国の著名建築家の劉家琨が設計し、書棚の中の1000冊余りの本はどれも翟永明自身が選んだもので、極めて先鋭的な姿で当時比較的まだ閉鎖的であった成都に出現したのだった。

 中国現代著名詩人の何小竹は、自身の文章の中にこのように記している。「両側の壁には天井に届く高さの本棚があり、テーブルクロスはシルバーグレーで、部屋の真ん中の2つの柱頭もまたシルバーグレーだった。壁には写真と絵が飾られ、これもまた冷たい色調のものであった。外を行く通行人はバーのカウンターに座る人を見ることができた……白夜はまるでパリ左岸にいるような効果を生んでいた」。

 これこそ翟永明が望んだものである。彼女はこの空間で自分の好きな演劇、文学、芸術などの各種の文化芸術活動のさまざまな試行を行い、中国の多くの著名詩人・芸術家・監督、さらには文芸愛好者がここで集うようになり、「白夜」はしだいに独特な性格をもつ、芸術的雰囲気が濃厚な著名な公共空間となったのだ。

 「白夜」は一度、移転したことがある。2008年、「白夜」が10歳を迎えたとき、玉林路から古い成都的な特色をもつ寛窄巷子に引っ越したのだ。この通りはすべて灰色レンガと瓦でつくられた擬古四合院建築で復元されていて、成都の歴史文化名都市保護街区の一つとなっている。新しい「白夜」ではすでにある文化的性格を伝承したうえで、さらに「白夜芸廊」を新設し、長期的に各種の芸術作品を展示し、中国の若い芸術家の推薦を重点的に行っている。

 20年もの間、「白夜」は成都が歴史文化名都市から現代的国際大都市へと変化していく過程を見届けたが、多くの成都人のもともとの生活状態はまだそのままであり「彼らはいまだある種の生活のテンポを緩める能力をもっています」。世界がどのように変化しようとも、翟永明は「決して詩人という身分を捨てない」と言い、彼女は依然としてここにおり、「白夜」の座標として、続けて美と自由を追求してゆくのである。

 


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