中国画報—単田芳:世間の次なる分解はない

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単田芳:世間の次なる分解はない

2018-10-31          

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    単田芳

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    単田芳(左から1人目)

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    単田芳

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    単田芳

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  「単田芳の講談」は多くの人の生活の中で忘れることができない記憶となっており、中国の伝統文化のシンボルでもある。2018年9月11日午後3時30分、著名講談家の単田芳が病気のため亡くなった。享年84歳であった。

 

 1954年に初舞台を踏んで以来、2018年に亡くなるまで、単田芳は60余年もの間、講談(中国語では評書)の道を歩んできた。彼の「隋唐演義」「三侠五義」「白眉大侠」「童林伝」「乱世梟雄」「水滸外伝」などの講談は、多くの中国の講談好きが愛してやまないものである。統計によると彼の観衆は2億人にものぼり、7億近いとまで言われることもある。数字がどれくらいであれ、今どの音源アプリでも、単田芳の「白眉大侠」の再生数は32000万回にも至っている。

 『ニューヨークタイムズ』は単田芳に対し、「彼の中国古典小説と歴史事件に対する情熱にみちた表現は古い講談の伝統を現代に向かわせるもので、数世代の中国人に喜ばれたものである」と評価している。

 

単田芳の生い立ちと業績

 単田芳は本名を単伝忠といい、1934年に天津で生まれた。母方の祖父の王福義は初期に東北地方に移住した大衆演芸の芸人で、母の王香桂は西河太鼓の有名な芸人で、父は楽器奏者、叔父も舅もすべて大衆演芸の従事者であり、いわゆる大衆演芸一家に生まれた。記憶がある頃にはすでに彼は講談場に入り込んでいて、耳で講談を覚えてしまい、78歳の頃にはすでに自分で語れるほどになっており、1314歳の頃には何本も長編講談を覚えていたという。

 時代が変化し、家族も離れ離れになってしまい、若い単田芳は早々に一家を支える重荷を背負うこととなり、講談の世界に足を踏み入れた。1955年彼は遼寧鞍山民間芸能団に入り、頭角を現した。「このときはじめて講談で収入を得、社会的地位も得ることができました」。

 文革の時代には一度は講談を止めたものの、1978年、再び舞台に舞い戻り、彼の講談がラジオで放送され、全国的に大流行した。

 独特なしわがれ声は単田芳の講談のシンボルともなり、業界内ではこの声を「月にかぶさる雲」といい、明月にかぶさる雲のように暗いことに喩えた。しかし彼が語ると、人物も物語も生を得たかのように生き生きとし、心を湧き立たせ、「三侠五義」「白眉大侠」「三侠剣」などの代表作が次々と生み出された。

 日々の生活が彼に講談のネタを提供してくれる。彼の講談作品は芸術的であると同時に、時代の発展に伴って分かりやすい大衆化した言葉で語られたため、人々の好評を博した。

 1990年代、単田芳は自らの芸術伝播会社を設立し、講談をラジオ、テレビで放映することによってより大きな市場を得ていった。2012年、南京で行われた第7回中国民間芸能「牡丹賞」の授賞式で、彼は終身成果賞を受賞した。

 60年ものキャリアの中で、単田芳が収録したラジオやテレビでの講談は110本、計12000余集にものぼり、500余りのテレビ局で放映され、その番組の合計時間は6000時間余りとなり、さらに1728種の伝統講談の原稿整理や編著を行った。2000年、単田芳は胃ガンにかかったが、手術を受けた後も講談から離れることなく、毅然として20余部のテレビとラジオ講談作品を創作・収録し、その中の多くが新たに創作されたり、作り直されたりした新式講談で、「賀竜伝奇」「血色特工」などの革命古典シリーズ講談もつくりあげた。

 2011年、単田芳の『言帰正伝――単田芳の語る単田芳』が出版された。この自伝は彼の口述を整理したもので、彼の独特な言語習慣や風格を残したものである。これは彼が最も得意とする表現方法でもあり、著名な講談芸術家の人生とある大衆演芸一家の盛衰を語ったものとなっている。

 単田芳には古い芸人の素朴さがあるだけでなく、積極的に時代に関わり合おうとする意欲もあった。彼は昔の芸人はあまりに教養がなく、自分はそうであってはいけないと思い、東北大学で歴史の勉強をした。生活の中に新たな技術が出現すると、それを積極的に受け入れた。彼が亡くなる5日前の96日、彼は自分のミニブログに彼のオンライン講談講座が始まると通知を出していた。

 

現代の講談芸術

 古い口頭演説芸術の形式として、講談には2000年余りの歴史があり、宋代に流行し、明末清朝に最盛期を迎えた。娯楽が乏しい時代、講談は人々の生活にとって重要な意味をもつ楽しみであり、多くの人にとって重要な歴史的・文学的啓蒙作用をもつものであった。198090年代には講談の黄金時代を迎え、袁成、単田芳、田蓮元、劉蘭芳が「四大講談名家」といわれた。

 21世紀に入ると、テレビなどの新興メディアが講談の伝播力を増す一方で、講談の人気も陰りはじめた。長編の講談はしばしば100回以上にもわたり、ただ一人で行い、比較的単調なものであるため、生活リズムがどんどん速くなっている今日では、人々は講談を聞く時間もなければ、辛抱強さもなくなっているからだ。

 時代の発展に伴い、単田芳は伝統的な形式にこだわらずに、インターネットやスマホアプリなどで講談を鑑賞できるようにし、多くの人にこの芸術を楽しんでもらうための努力を重ねた。

 2010年、「単田芳インターネット講談場」が中国網において開設された。中国網文化中国には単田芳のさまざまな時期の講談100部あまりが収録されており、これらの視聴覚機能があるほか、さらに単田芳に関する多くのコーナーが設けられている。

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単田芳:世間の次なる分解はない

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    単田芳

  「単田芳の講談」は多くの人の生活の中で忘れることができない記憶となっており、中国の伝統文化のシンボルでもある。2018年9月11日午後3時30分、著名講談家の単田芳が病気のため亡くなった。享年84歳であった。

 

 1954年に初舞台を踏んで以来、2018年に亡くなるまで、単田芳は60余年もの間、講談(中国語では評書)の道を歩んできた。彼の「隋唐演義」「三侠五義」「白眉大侠」「童林伝」「乱世梟雄」「水滸外伝」などの講談は、多くの中国の講談好きが愛してやまないものである。統計によると彼の観衆は2億人にものぼり、7億近いとまで言われることもある。数字がどれくらいであれ、今どの音源アプリでも、単田芳の「白眉大侠」の再生数は32000万回にも至っている。

 『ニューヨークタイムズ』は単田芳に対し、「彼の中国古典小説と歴史事件に対する情熱にみちた表現は古い講談の伝統を現代に向かわせるもので、数世代の中国人に喜ばれたものである」と評価している。

 

単田芳の生い立ちと業績

 単田芳は本名を単伝忠といい、1934年に天津で生まれた。母方の祖父の王福義は初期に東北地方に移住した大衆演芸の芸人で、母の王香桂は西河太鼓の有名な芸人で、父は楽器奏者、叔父も舅もすべて大衆演芸の従事者であり、いわゆる大衆演芸一家に生まれた。記憶がある頃にはすでに彼は講談場に入り込んでいて、耳で講談を覚えてしまい、78歳の頃にはすでに自分で語れるほどになっており、1314歳の頃には何本も長編講談を覚えていたという。

 時代が変化し、家族も離れ離れになってしまい、若い単田芳は早々に一家を支える重荷を背負うこととなり、講談の世界に足を踏み入れた。1955年彼は遼寧鞍山民間芸能団に入り、頭角を現した。「このときはじめて講談で収入を得、社会的地位も得ることができました」。

 文革の時代には一度は講談を止めたものの、1978年、再び舞台に舞い戻り、彼の講談がラジオで放送され、全国的に大流行した。

 独特なしわがれ声は単田芳の講談のシンボルともなり、業界内ではこの声を「月にかぶさる雲」といい、明月にかぶさる雲のように暗いことに喩えた。しかし彼が語ると、人物も物語も生を得たかのように生き生きとし、心を湧き立たせ、「三侠五義」「白眉大侠」「三侠剣」などの代表作が次々と生み出された。

 日々の生活が彼に講談のネタを提供してくれる。彼の講談作品は芸術的であると同時に、時代の発展に伴って分かりやすい大衆化した言葉で語られたため、人々の好評を博した。

 1990年代、単田芳は自らの芸術伝播会社を設立し、講談をラジオ、テレビで放映することによってより大きな市場を得ていった。2012年、南京で行われた第7回中国民間芸能「牡丹賞」の授賞式で、彼は終身成果賞を受賞した。

 60年ものキャリアの中で、単田芳が収録したラジオやテレビでの講談は110本、計12000余集にものぼり、500余りのテレビ局で放映され、その番組の合計時間は6000時間余りとなり、さらに1728種の伝統講談の原稿整理や編著を行った。2000年、単田芳は胃ガンにかかったが、手術を受けた後も講談から離れることなく、毅然として20余部のテレビとラジオ講談作品を創作・収録し、その中の多くが新たに創作されたり、作り直されたりした新式講談で、「賀竜伝奇」「血色特工」などの革命古典シリーズ講談もつくりあげた。

 2011年、単田芳の『言帰正伝――単田芳の語る単田芳』が出版された。この自伝は彼の口述を整理したもので、彼の独特な言語習慣や風格を残したものである。これは彼が最も得意とする表現方法でもあり、著名な講談芸術家の人生とある大衆演芸一家の盛衰を語ったものとなっている。

 単田芳には古い芸人の素朴さがあるだけでなく、積極的に時代に関わり合おうとする意欲もあった。彼は昔の芸人はあまりに教養がなく、自分はそうであってはいけないと思い、東北大学で歴史の勉強をした。生活の中に新たな技術が出現すると、それを積極的に受け入れた。彼が亡くなる5日前の96日、彼は自分のミニブログに彼のオンライン講談講座が始まると通知を出していた。

 

現代の講談芸術

 古い口頭演説芸術の形式として、講談には2000年余りの歴史があり、宋代に流行し、明末清朝に最盛期を迎えた。娯楽が乏しい時代、講談は人々の生活にとって重要な意味をもつ楽しみであり、多くの人にとって重要な歴史的・文学的啓蒙作用をもつものであった。198090年代には講談の黄金時代を迎え、袁成、単田芳、田蓮元、劉蘭芳が「四大講談名家」といわれた。

 21世紀に入ると、テレビなどの新興メディアが講談の伝播力を増す一方で、講談の人気も陰りはじめた。長編の講談はしばしば100回以上にもわたり、ただ一人で行い、比較的単調なものであるため、生活リズムがどんどん速くなっている今日では、人々は講談を聞く時間もなければ、辛抱強さもなくなっているからだ。

 時代の発展に伴い、単田芳は伝統的な形式にこだわらずに、インターネットやスマホアプリなどで講談を鑑賞できるようにし、多くの人にこの芸術を楽しんでもらうための努力を重ねた。

 2010年、「単田芳インターネット講談場」が中国網において開設された。中国網文化中国には単田芳のさまざまな時期の講談100部あまりが収録されており、これらの視聴覚機能があるほか、さらに単田芳に関する多くのコーナーが設けられている。


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