中国画報—幸福の多重的意味——『長老(ラビ)の猫』の翻訳者、張怡

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幸福の多重的意味——『長老(ラビ)の猫』の翻訳者、張怡

2018-03-01      李霞=文    

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    『長老(ラビ)の猫』

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    『長老(ラビ)の猫』の翻訳者、張怡

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  子猫のムルーがラビの家の一日中しゃべりまくっていたオウムを食べてしまった後、人の言葉を話せるようになった。

 『長老(ラビ)の猫』はジョアン・スファールが子猫のムルーのために設定した生活背景は1920年代のアルジェリアだった。当時、アルジェリアはフランスの植民地であり、そこにはユダヤ人、アラブ人、フランス人が生活していて、多元的文化が交錯する所だった。

 ユダヤ人のラビであるスファールは、娘のズラビアと生活していて、家の中にはさらに一匹の子猫がいた。スファール・ラビ(ラビとはユダヤ教において、正統なユダヤ教育を受け、典籍や立法に精通した智者のこと)は人の尊敬を受け、教義を守る厳格な人だった。娘のズラビアはめったに外に出ず、子猫のムルーの世話をあれこれと焼き、子猫はこの娘にとって唯一の楽しみとなっていた。この一家はこうして静かに生活を送っていた。

 

人の言葉を話す猫

 変化はムルーが人の言葉を話すようになった後に訪れる。

 ズラビアはもしムルーが話せたら、必ず信じられないようなことを話すに違いないと思っていた。彼女の考えは誤ってはおらず、話をするムルーは口をあけると嘘ばかりついた。彼はスファールに「オウムは急用ができて出かけたから、ご飯をいっしょに食べるためにその帰りを待つ必要はない」と言った。スファールは怒って、「言葉とは本当のことを言うためのものだ」と諫めた。しかし子猫のムルーは「話すことができるからには、それが嘘であろうとも、われわれは言いたいことを言うことができる」と言った。

 その日から、ムルーは「必要ない時に嘘をつき、さらに人が傷つくような時には本当のことを言う」ようになった。ムルーによれば神様に比べると、自分の大好きなズラビアちゃんこそ本当の存在であり、彼はラビの神様に対する信仰は彼が心を安らかにするためにつくり出した幻に過ぎないと批判する。彼はラビの長老としての威厳を当てこすり、ラビがどれほど年をとっても分からないことを、人を探して教えを乞う。口に戸をたてられないムルーが「真相」を語る時、いったいどのようになるのか。

 言葉を話せるムルーには人の意識が生まれ、人と同様の悩みも経験し始める。訳者の張怡はこうした変化を、人類は言葉を生み出したために明確な時間の存在を知ったのであり、言葉を通してのみ、物理的な時間を「現在」と表現することができ、「現在」があってはじめて「過去」と「未来」があると語る。言葉と時間のこうした関連があるために、子猫は信仰に対する幻滅を感じる。人の寿命はネコの7倍あり、猫にとって永遠の神様のズラビアも遅かれ早かれ結婚して子供を生み、自分を捨て去るだろう。ズラビアはこれにより神秘的な色彩を失い、人の姿に戻る。こうしてムルーにとって真実の存在であるズラビアは幻となり、彼に感傷を感じさせる。

 人の言葉を話す子猫は、人類の言葉を理解するがために、知識を追求し、人の心を探り、信仰に対して理性的な判断を下し、人生の悲しみを理解する。旺盛な知識力と哲学的思考により、凡庸な生活を超えた、また別の幸福感を得ることができるのだ。

 

スファールの二重の世界

 ラビのスファールは知識をもち、善良で、ユダヤの教えを厳格に守っていた。彼は子猫のムルーに西洋思想は強奪性、捕食性、破壊性をもった機械であると語る。彼は「西洋世界は世界上のすべての問題を一挙に解決しようとするが、それは罠に過ぎない」と言う。しかし、フランスのユダヤ教務会の任命を受けて正式にラビになるため、彼はフランス語の試験を受けざるを得なくなる。

 ズラビアはラビになろうとしているフランスの若者と結婚した。ラビと子猫はズラビアがフランスにいる若者の家族に会いに行くのについてゆく。この部分は作者のジョアン・スファールは「出エジプト記」と名付けている。パリにおいて、スファールはとても憂鬱であった。シナゴーグにある祈祷書はすべて引き出しにつなげられ、持ち去られるのを防いでいたし、礼拝の時も経典を唱えるだけで、あとは静まり返っていて、アルジェリアの安息日の歌声とは比べものにならない。ユダヤ教を信じる若いフランスのラビは玄関のベルを鳴らすが、これは安息日の戒律を破る行為だ。ラビのスファールは一日じゅうブタ肉を食べ、安息日にタバコを吸い、礼拝に出ないユダヤ教徒に会ったことすらある。レビが気落ちしたのは、このユダヤ教徒の生活が幸せそうだったからだ。彼は「もし戒律を守らずに幸福になれるなら、こうした複雑な戒律を守る生活をどうして厳守しなければならないのか」と疑問に思った。これもまた、ジョアン・スファールが現代社会における宗教の困難に、温かく、機智とユーモアたっぷりに質疑を呈したものである。

 ジョアン・スファールが喩えた「出エジプト記」はユダヤ民族の歴史を暗示し、またフランスの植民地であるアルジェリアと宗主国との関係をも暗示する。ラビのスファールがフランス人としてラビの身分を認めてもらうための試験を通して、パリでユダヤ教が現代生活によって突き付けられた難題をわが目で見て、そしてズラビアが感じたフランスのこうした現代化社会に対する不安、伝統社会と現代文明との衝突が人々に明らかに与えた打撃、異なる文明や信仰をもつ人々の幸福に対する探求が、この本の中の人物が経験することがらとして余すところなく表現されている。

 

文明の多様性

 この本の中の物語はアルジェリアで起きただけでなく、物語の主人公たちが北アフリカ、エジプトを出て、紅海をわたり、パリに行き、最後にエルサレムへ旅立つ間にも発生する。さまざまな空間の中で、子猫のムルーとラビの親子、そして伝奇的色彩をもつライオン王のマルカ、アラビアの歌手チェック、ユダヤの老人アルマンド、さすらいの歌手レイモンドなど、多くの面白い人物がでてくる。

 空間が幾度も変わり、多元的文化が交錯し、異なる観念が衝突する。これはまさにジョアン・スファールが提供した物語の土壌と雰囲気であり、作者が成長した土壌と雰囲気でもある。ジョアン・スファールは漫画家になる以前、フランス南部にあるニース大学で哲学を学び、哲学を学んだバックグランドにはユダヤ教徒の家族、アルジェリア系のフランス人といった多重の身分があり、それが彼にこのような多くの意味と内容をもった作品の創造を可能にしたと言える。人類文明の角度から見ると、こうした多元性は人類の幸福な成長の土壌と環境を提供する。

 『長老(ラビ)の猫』は動物の視野からスタートして、哲学的命題を平凡な日常の物語の中に溶け込ませている。子どもはその中から幻想的色彩と線により描き出された賑やかさを感じ取り、大人は多元的な文明が集まり融合する道筋を見て取る。伝統と現代、ユダヤ文明と欧米思想、東洋と西洋。異なる文明のさまざまな概念がこの本の中で子猫の知性という視点と哲学思想により新たに見つめ直され、定義される。この作品は世界を見る視野を広げ、文明の多様性への感知を開拓し、さらには幸福のさまざまな意味への理解を広げるものである。

 ジョアン・スファールは「古めかしい化け猫で全世界の読者を征服した」のだ。

 

翻訳者張怡による一言:

 多くの読者が『長老の猫』を初めて読んだ時、作品の荒々しく気ままな風格に驚くでしょう。スファールの絵の雰囲気には伝統的意義での美的感覚は見られず、線は乱れ、画面は荒々しく、どのページも6つの同じ大きさの枠で区切られ、コマ割りに何の工夫もみられません。こうした風格上の散漫さは、その実フランスの著名な寓話作家であるラ・フォンテーヌの遺風であるとも言えます。こうした風格はマンネリのように思えるかもしれませんが、その実、考え抜かれ、平易で自然なものによって、純粋な最高の芸術的境地に達したものなのです。

 『長老の猫』は漫画作品ではありますが、作者は文学的創作として捉えています。彼は作品が人の思考を誘う素材となり、読者の固定観念をゆさぶるものとなることを望んでいます。

 ジョアン・スファールは20世紀以来のソシュールによる言語学の変化を受け継ぐものです。言語活動はずっと人類の特長であり、これは私たちに現実を構築し、人と世界との生きた関係を打ち立てるのに役立ってきました。子猫のムルーに話をさせることで、話すことにより叙事の動力装置をスタートさせ、これはストーリーの出だしをとても面白いものとしています。彼は言語という問題から着手し、まず言語の有効性に対し疑問を呈し、読者に言葉自身について考えさせ、言葉がわれわれを動物と区別するというこの重要な意義について考えさせます。

 私はこの本の魅力は人間の幸福とは何かを考えさせるところにあると思います。ラビとして、彼は信仰によって幸福になる人です。彼を見ると、あなたは信仰がとても大きなエネルギーがあり、大きな力を生み出すもののように思うでしょう。もしわれわれがラビを世俗的な人物として捉えるならば、彼の生活もまた典型的なものとなり、彼は実はとても能力のある人ですが、職場での昇進のために意味のない資格試験を受けなければならないのです。でたらめとは思っていても、彼はこれを受け容れます。彼は俗人の幸福を手にしたいのです。当然ラビも困難にぶちあたり、この点ではどの人も心を動かされるでしょう。作者はラビを通して人はいかにして身を処し、いかにして自分と直面するかについて語っているのです。

 

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幸福の多重的意味——『長老(ラビ)の猫』の翻訳者、張怡

2018-03-01      李霞=文      

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    『長老(ラビ)の猫』の翻訳者、張怡

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  子猫のムルーがラビの家の一日中しゃべりまくっていたオウムを食べてしまった後、人の言葉を話せるようになった。

 『長老(ラビ)の猫』はジョアン・スファールが子猫のムルーのために設定した生活背景は1920年代のアルジェリアだった。当時、アルジェリアはフランスの植民地であり、そこにはユダヤ人、アラブ人、フランス人が生活していて、多元的文化が交錯する所だった。

 ユダヤ人のラビであるスファールは、娘のズラビアと生活していて、家の中にはさらに一匹の子猫がいた。スファール・ラビ(ラビとはユダヤ教において、正統なユダヤ教育を受け、典籍や立法に精通した智者のこと)は人の尊敬を受け、教義を守る厳格な人だった。娘のズラビアはめったに外に出ず、子猫のムルーの世話をあれこれと焼き、子猫はこの娘にとって唯一の楽しみとなっていた。この一家はこうして静かに生活を送っていた。

 

人の言葉を話す猫

 変化はムルーが人の言葉を話すようになった後に訪れる。

 ズラビアはもしムルーが話せたら、必ず信じられないようなことを話すに違いないと思っていた。彼女の考えは誤ってはおらず、話をするムルーは口をあけると嘘ばかりついた。彼はスファールに「オウムは急用ができて出かけたから、ご飯をいっしょに食べるためにその帰りを待つ必要はない」と言った。スファールは怒って、「言葉とは本当のことを言うためのものだ」と諫めた。しかし子猫のムルーは「話すことができるからには、それが嘘であろうとも、われわれは言いたいことを言うことができる」と言った。

 その日から、ムルーは「必要ない時に嘘をつき、さらに人が傷つくような時には本当のことを言う」ようになった。ムルーによれば神様に比べると、自分の大好きなズラビアちゃんこそ本当の存在であり、彼はラビの神様に対する信仰は彼が心を安らかにするためにつくり出した幻に過ぎないと批判する。彼はラビの長老としての威厳を当てこすり、ラビがどれほど年をとっても分からないことを、人を探して教えを乞う。口に戸をたてられないムルーが「真相」を語る時、いったいどのようになるのか。

 言葉を話せるムルーには人の意識が生まれ、人と同様の悩みも経験し始める。訳者の張怡はこうした変化を、人類は言葉を生み出したために明確な時間の存在を知ったのであり、言葉を通してのみ、物理的な時間を「現在」と表現することができ、「現在」があってはじめて「過去」と「未来」があると語る。言葉と時間のこうした関連があるために、子猫は信仰に対する幻滅を感じる。人の寿命はネコの7倍あり、猫にとって永遠の神様のズラビアも遅かれ早かれ結婚して子供を生み、自分を捨て去るだろう。ズラビアはこれにより神秘的な色彩を失い、人の姿に戻る。こうしてムルーにとって真実の存在であるズラビアは幻となり、彼に感傷を感じさせる。

 人の言葉を話す子猫は、人類の言葉を理解するがために、知識を追求し、人の心を探り、信仰に対して理性的な判断を下し、人生の悲しみを理解する。旺盛な知識力と哲学的思考により、凡庸な生活を超えた、また別の幸福感を得ることができるのだ。

 

スファールの二重の世界

 ラビのスファールは知識をもち、善良で、ユダヤの教えを厳格に守っていた。彼は子猫のムルーに西洋思想は強奪性、捕食性、破壊性をもった機械であると語る。彼は「西洋世界は世界上のすべての問題を一挙に解決しようとするが、それは罠に過ぎない」と言う。しかし、フランスのユダヤ教務会の任命を受けて正式にラビになるため、彼はフランス語の試験を受けざるを得なくなる。

 ズラビアはラビになろうとしているフランスの若者と結婚した。ラビと子猫はズラビアがフランスにいる若者の家族に会いに行くのについてゆく。この部分は作者のジョアン・スファールは「出エジプト記」と名付けている。パリにおいて、スファールはとても憂鬱であった。シナゴーグにある祈祷書はすべて引き出しにつなげられ、持ち去られるのを防いでいたし、礼拝の時も経典を唱えるだけで、あとは静まり返っていて、アルジェリアの安息日の歌声とは比べものにならない。ユダヤ教を信じる若いフランスのラビは玄関のベルを鳴らすが、これは安息日の戒律を破る行為だ。ラビのスファールは一日じゅうブタ肉を食べ、安息日にタバコを吸い、礼拝に出ないユダヤ教徒に会ったことすらある。レビが気落ちしたのは、このユダヤ教徒の生活が幸せそうだったからだ。彼は「もし戒律を守らずに幸福になれるなら、こうした複雑な戒律を守る生活をどうして厳守しなければならないのか」と疑問に思った。これもまた、ジョアン・スファールが現代社会における宗教の困難に、温かく、機智とユーモアたっぷりに質疑を呈したものである。

 ジョアン・スファールが喩えた「出エジプト記」はユダヤ民族の歴史を暗示し、またフランスの植民地であるアルジェリアと宗主国との関係をも暗示する。ラビのスファールがフランス人としてラビの身分を認めてもらうための試験を通して、パリでユダヤ教が現代生活によって突き付けられた難題をわが目で見て、そしてズラビアが感じたフランスのこうした現代化社会に対する不安、伝統社会と現代文明との衝突が人々に明らかに与えた打撃、異なる文明や信仰をもつ人々の幸福に対する探求が、この本の中の人物が経験することがらとして余すところなく表現されている。

 

文明の多様性

 この本の中の物語はアルジェリアで起きただけでなく、物語の主人公たちが北アフリカ、エジプトを出て、紅海をわたり、パリに行き、最後にエルサレムへ旅立つ間にも発生する。さまざまな空間の中で、子猫のムルーとラビの親子、そして伝奇的色彩をもつライオン王のマルカ、アラビアの歌手チェック、ユダヤの老人アルマンド、さすらいの歌手レイモンドなど、多くの面白い人物がでてくる。

 空間が幾度も変わり、多元的文化が交錯し、異なる観念が衝突する。これはまさにジョアン・スファールが提供した物語の土壌と雰囲気であり、作者が成長した土壌と雰囲気でもある。ジョアン・スファールは漫画家になる以前、フランス南部にあるニース大学で哲学を学び、哲学を学んだバックグランドにはユダヤ教徒の家族、アルジェリア系のフランス人といった多重の身分があり、それが彼にこのような多くの意味と内容をもった作品の創造を可能にしたと言える。人類文明の角度から見ると、こうした多元性は人類の幸福な成長の土壌と環境を提供する。

 『長老(ラビ)の猫』は動物の視野からスタートして、哲学的命題を平凡な日常の物語の中に溶け込ませている。子どもはその中から幻想的色彩と線により描き出された賑やかさを感じ取り、大人は多元的な文明が集まり融合する道筋を見て取る。伝統と現代、ユダヤ文明と欧米思想、東洋と西洋。異なる文明のさまざまな概念がこの本の中で子猫の知性という視点と哲学思想により新たに見つめ直され、定義される。この作品は世界を見る視野を広げ、文明の多様性への感知を開拓し、さらには幸福のさまざまな意味への理解を広げるものである。

 ジョアン・スファールは「古めかしい化け猫で全世界の読者を征服した」のだ。

 

翻訳者張怡による一言:

 多くの読者が『長老の猫』を初めて読んだ時、作品の荒々しく気ままな風格に驚くでしょう。スファールの絵の雰囲気には伝統的意義での美的感覚は見られず、線は乱れ、画面は荒々しく、どのページも6つの同じ大きさの枠で区切られ、コマ割りに何の工夫もみられません。こうした風格上の散漫さは、その実フランスの著名な寓話作家であるラ・フォンテーヌの遺風であるとも言えます。こうした風格はマンネリのように思えるかもしれませんが、その実、考え抜かれ、平易で自然なものによって、純粋な最高の芸術的境地に達したものなのです。

 『長老の猫』は漫画作品ではありますが、作者は文学的創作として捉えています。彼は作品が人の思考を誘う素材となり、読者の固定観念をゆさぶるものとなることを望んでいます。

 ジョアン・スファールは20世紀以来のソシュールによる言語学の変化を受け継ぐものです。言語活動はずっと人類の特長であり、これは私たちに現実を構築し、人と世界との生きた関係を打ち立てるのに役立ってきました。子猫のムルーに話をさせることで、話すことにより叙事の動力装置をスタートさせ、これはストーリーの出だしをとても面白いものとしています。彼は言語という問題から着手し、まず言語の有効性に対し疑問を呈し、読者に言葉自身について考えさせ、言葉がわれわれを動物と区別するというこの重要な意義について考えさせます。

 私はこの本の魅力は人間の幸福とは何かを考えさせるところにあると思います。ラビとして、彼は信仰によって幸福になる人です。彼を見ると、あなたは信仰がとても大きなエネルギーがあり、大きな力を生み出すもののように思うでしょう。もしわれわれがラビを世俗的な人物として捉えるならば、彼の生活もまた典型的なものとなり、彼は実はとても能力のある人ですが、職場での昇進のために意味のない資格試験を受けなければならないのです。でたらめとは思っていても、彼はこれを受け容れます。彼は俗人の幸福を手にしたいのです。当然ラビも困難にぶちあたり、この点ではどの人も心を動かされるでしょう。作者はラビを通して人はいかにして身を処し、いかにして自分と直面するかについて語っているのです。

 


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