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「中国のこれらの企業家の出現は、歴史の選択であり、創業の発展過程に関係がある。彼らは当初からいっしょに工場に入り、20年も共に働いてきて、運命共同体となっている。西方の国々では専門化•社会化の程度が高く、CEOがすぐ変わることが多いため、このような互いに気持ちが通じる、長く続くパートナーシップをつくれない」と、中国人民大学の彭剣峰教授は語る。
ハイアール:張瑞敏と楊綿綿
1984年、35歳の張瑞敏は、楊綿綿に青島冷蔵庫総工場(ハイアールグループの前身)副工場長となるよう要請した。「彼女はほかの労働者と違っていると思いました。彼女と同じ年ごろの労働者たちは、出勤時間に買い物したり、編み物をしたりしているのに、彼女だけはまじめに勉強していたのです。」ハイアールの20年あまりの発展史は、楊綿綿をただの知的な女性からプロの経営者に、青島冷蔵庫総工場のチーフエンジニア兼副工場長からハイアールグループの総裁にまで変身させた。当時の工場長だった張瑞敏も、ハイアールグループの取締役総裁、最高経営責任者となった。
ハイアールの迅速な拡大と穏やかな発展は、数多くの優れた経営管理人材による。経営管理人材を多くもっていたことが、ハイアールの成長の基本となったのだ。楊綿綿は疑いなく、経営管理人材の最もすぐれた代表である。張瑞敏はよいコンビの楊綿綿をこう評価している。指導者が期待していたものは二に過ぎなくても、彼女が実行すると十を成し遂げる。張瑞敏と楊綿綿は、一人はマクロ戦略に長け、もう一人は細かいところへ気を配ることができ、「性質が違うものがよいコンビを組む」という性別も知力も最適なパートナーとなった。
レノボ:柳伝志と馬雪征
馬雪征とレノボとの縁が生まれたのは19年前だった。1988年、中国科学院の周光召院長が香港を訪れた時、馬雪征は特別補佐として同行した。柳伝志は彼女の地位の重要性を知り、数週間前に彼女に会いに来て、周院長にレノボ香港社のテープカット•セレモニーに出席するように説得してもらいたいと頼んだ。
これは馬雪征と柳伝志との初めての出会いで、しかも彼女のレノボとの初めての接触だった。
当時の馬雪征はすでに中国科学院の処長(部長)を務めていたが、香港レノボは香港の古い工業区にある小さな会社にすぎなかった。「ショートパンツを穿き、腹を丸出しにした肉体労働者に囲まれた」このときの対面で、起業に苦労しているものの鵬程の志を持つ柳伝志にすっかり感動させられた。1990年、まもなく昇進もきまっていた馬雪征は、柳伝志の招きに応じてレノボに転職し、会社の創始者の一人となり、その後二転三転する情況の中で重役を連任してきた。柳伝志はある雑誌のインタビューで、IBMの個人パソコン業務買収の際に、馬雪征が果たした役割は非常に大きかったと語っている。
馬雪征は人脈が広く交際能力が強い上に、英語も流暢に話せるので、しだいにレノボの対外への架け橋となった。2000年に、馬雪征はレノボグループの最高財務責任者を務め、香港資本市場との橋渡しを担当し、レノボの「渉外大使」と称えられた。総裁柳伝志は、「私は馬雪征のために働いているのです。実は彼女が後ろでレノボの資金繰りを繰っているのです」と冗談を飛ばした。
蒙牛:牛根生と廬俊
1999年1月、蒙牛は「蒙牛乳業有限公司」の名前で登記•設立された。登録資本金の100万元は殆ど牛根生と妻の出資だった。牛根生の蒙牛が設立されるやいなや、話を聞きつけた彼の元の部下数百人が、相続いてやってきた。牛根生は彼らによく考えてから来るように、蒙牛は彼らの前途を確約することはできないと言ったが、部下たちは躊躇せずに入社してきた。
新しい蒙牛の経営チームには、牛根生は外から廬俊一人だけ招いた。当時、彼女はすでに内蒙古証券委員会で部長を担当していた。牛根生は部下に「すべての競争は企画から始まる」といった。共産党の党務と行政の仕事に詳しい廬俊は、乳業の専門家で、証券業の達人でもある。彼女を招聘する目的は明快で、蒙牛は初めから株式会社をつくり上げようとしていて、そのためによいスタートを切りたかったのだ。
8か月が過ぎた1999年8月、廬俊の協力のもとで、蒙牛は株式改造を行い、名前を「内蒙古牛乳業股份公司」とし、登録資本は1398万元に急増、発起人は10人の自然人(権利•義務の主体である個人)である。出資率によると、牛根生がトップで、廬俊は八番目である。社内でも社外でも多くの人が、牛根生を「蒙牛の父」、廬俊を「蒙牛の母」と考えている。
ハイセンス(海信):周厚健と于淑珉
前述した数人の女性と比べると、于淑珉の名前はあまり知られていない。しかし、彼女は取締役の周厚健に次いで、ハイセンスグループのすべての権力を握っている。于淑珉は現在ハイセンスグループの総裁、ハイセンス電器の取締役を務めており、ハイセンスグループが科龍を買収したのち、彼女はまた科龍電器の取締役も担当している。
1999年年末、ハイセンスグループは経済例会を開き、指導層の新たな調整を行った。この会議で、ハイセンスグループの総裁を務める周厚健が、これからは経営活動に手を出さないと宣言し、多くの人を驚かした。やがて于淑珉が総裁に就任することを知ると、当然のことだと胸をなでおろした。
後任者の選抜について、心中でいろいろと考えていた周厚健は、とうとう于淑珉を選定した。彼女の能力はみなに認められており、自分とのチームワークもぴったりであった。「彼女の粘り強さはすごいものです。この強靭さは残酷な市場競争には特に重要です。また、市場に対する彼女の感覚は非常によく、決断のときには、きっぱりと決断します」と評価した。
于淑珉の手腕は2000年からハイセンスで発揮されはじめた。その厳格かつ迅速な活動方法によって、彼女は辣腕女性と認められ、「サッチャー夫人」とこっそり呼ぶ従業員もいるほどだ。やや太めの彼女は、顔は和やかなものの、めったに笑わず、いつも硬い表情をしている。
周厚健と同じように、于淑珉も壮志を抱く人間である。彼女のハイセンス経営の目標はなんですかとの記者の質問に、彼女は「中国のソニーになりたい」といった。現在、彼女は周厚健と共に、2010年までにハイセンスの売上高を1000億元に増やす長期企画を立てている。