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今日の中国とアメリカの文化的融合をみるとき、30年前の国交樹立初期の中国とアメリカ両国の交流、人の心を打った笑顔と感動的な物語を思い出さずにはいられない。
「雪解け」が始まった時代
1979年、1月1日、中華人民共和国とアメリカ合衆国は正式に外交関係を樹立した。1月28日、中国の旧暦の正月、時の中国国務院副総理の鄧小平は、この日をアメリカ訪問の初日に選んだ。これは新中国成立以来、中国の首脳が初めてアメリカを訪問したもので、時代を画する歴史的意義をもつものであった。
国交樹立は中国とアメリカ両国の長期にわたる敵対関係の終了を意味していたが、両国の間には大きな差異がいまだ存在していた。国交回復当初、両国のリーダーはともに両国関係の発展を求めると同時に両国民の心理的距離を近づけることを望んでいた。しかしその「雪解け」初期の時代には、冷戦は人々の思考習慣になっていて、中国・アメリカ両国の人々のコミュニケーションと交流には大きな壁が存在していた。
鄧小平の訪米日程はとてもタイトで、正式な外交活動以外にも、多くの参観・訪問が予定され、同じように注目を集めた。29日の夜、鄧小平がワシントンを訪れたときにそのピークを迎えた。ケネディセンターでカーター大統領が鄧小平のために心をこめた盛大な演出を用意していたのである。
人民日報の2人のベテラン記者、袁先禄と蒋元椿は、のちに発表したレポート『感動的な一晩』のなかで、「黒人ミュージカル『ユービー』にしても、バレエ『牧場の風景』、『バスケットボールゲーム』にしても、歌曲『高いロッキー山脈』にしても、民族的な特色を豊富にもつもので、濃厚な郷土の風情や生活感にあふれるものでした。健康的でさわやかで、われわれのような外国人にも簡単に理解でき、感動させられるものでした」と記している。
その演出の最後のプログラムは、200人のアメリカの子供たちが中国語で『私は北京の天安門を愛する』を合唱するというものだった。彼らの歌はこの夜のクライマックスとなった。鄧小平は感動のあまり、演目がおわったあと、夫人の卓琳とともに舞台に走り出て、アメリカの子供たちを抱きしめ、キスをした。カーター大統領はその晩の日記にこのように記している。「鄧がアメリカの出演者、とくに中国の歌を歌った子供たちを抱きしめたのは、心からの行為であったように見えた。鄧と彼の夫人は心からアメリカ国民を愛し、その場の観客やテレビを見ていた人々を心から感動させた。」
その実、新中国とアメリカとの文化的コミュニケーションと交流は、アメリカと中国が正式に外交関係を樹立する前から始まっていた。1972年2月21日、アメリカのニクソン大統領が北京にやってきて、歴史的な「氷を打ち破る旅」を開始した。彼のそのときの中国訪問のなかで、中国政府はつがいのパンダをアメリカの人々にプレゼントした。そののち、パンダのリンリンとシンシンはワシントンの国立動物園で生活を始め、中国の国宝はアメリカで長く続く「パンダブーム」を引き起こした。
1972年のニクソン大統領の「氷を打ち破る旅」の後、初めてアメリカの土を踏んだ中国の文化使者は雑技団員だった。目もくらむようなとんぼ返りに驚きの曲乗り、その前の「卓球外交」とともに一般のアメリカ人の新中国の最初の印象となった。
1973年、フィラディルフィア交響楽団が中国を訪れ、8800人の中国の観衆は久しぶりのベートーベンの音楽に陶酔した。
1979年1月、中国とアメリカが国交を樹立したとき、『中国・アメリカ文化交流協定』が真っ先に署名された3つの重要文書のひとつとして中国とアメリカとの間で結ばれ、両国の公的・民間文化交流の架け橋となった。
コミュニケーションと融合
1980年代末、中国とアメリカ文化の相互交流は頻繁になった。1987年、アメリカ映画『ブレークダンス』が上映され、中国のストリート文化流行を引き起こした。その年、ウォークマンの音楽とともに、若者がブレークダンスの服を着て街角で踊る風景がよく見られ、時代を象徴するシーンとなった。17歳の欧陽・鄧欧歌らがダンスグループを組み、全国のブレークダンス大会で優勝し、2年後にはこのアメリカの流行文化の影響を深く受けた数人の若者は、へヴィーメタルグループを結成した。ロックオムニバス盤『中国火Ⅰ』のなかには、彼らの『給我一点愛(私に愛を少しください)』が収録されている。
ブレークダンスが中国の都市の若者たちに精神上の快楽をもたらしたのならば、1987年11月12日、中国で初めてのケンタッキーが北京の前門大街に開業したことは、中国人の胃に快楽をもたらした。その日はとても寒かったのにもかかわらず、行列を作って並ぶ人がひきもきらず、レストラン側は秩序維持のために警察官の出動を要請せざるを得なかった。1時間並んでようやくオリジナルチキン1本を買うことができるほどだったのだが、それが人々の興をそぐことはなかった。現在、中国の都市の日常生活で不可欠なファーストフード店は、当時は中国の新しいライフスタイルのシンボルであった。
1987年を中国とアメリカ両国の文化交流のなかで時代を画する年であると考える人もいる。なぜならその年に、アメリカのハズブロ社が授権した製品が広州白雲山玩具廠で生産開始され、上海音像資料館と上海テレビ局が協力して製作されたアメリカ版『キングコング』第1~3期計95集のアニメーション番組が、1987年末から全国のテレビで正式に放映されたのである。20年後、実写版の『キングコング』が中国で初めて上映されたが、それはアメリカより1週間遅れただけであった。アニメーションの『キングコング』が中国の子供に娯楽をもたらしたのと同じように、映画の『キングコング』も中国の若者を熱狂させた。
中国人はアメリカの流行文化を受け入れると同時に、全面的にアメリカを理解しはじめた。1992年のテレビドラマ『ニューヨークの北京人』では、北京人のニューヨークでの奮闘やあがきを描き出した。東西文化の衝突によって引き起こされたのは、救いのない彷徨だけではない。1994年、ハリウッドの大作『逃亡者』が中国の映画市場を大いに刺激し、引き続き1998年の『タイタニック』が、中国に3億6000万元の興行成績という「神話」を残した。
これと同時にアメリカ人も中国に注目を始めた。2000年、中国がアメリカで行った最大規模・広範囲・最長の文化交流活動「中華文化、アメリカ行き」が、ニューヨークやワシントンなど9都市で挙行された。これは、アメリカの人々に中国の伝統文化や現代芸術、中国の歴史や現状などを紹介したものであった。悠久で優れた東方文化がアメリカにセンセーションを巻き起こし、このイベントを「芸術の対話、心の対話」と表現するメディアもあった。国連のミレニウムサミットに喜びとめでたさを添え、多くのアメリカ人に中国に対する驚きとあこがれをもたらした。