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30年にわたる奮闘
30年前、波瀾万丈の時代が彼らにチャンスを与え、彼らは自らの人生を自らの手で切り開き始めた。
30年間、彼らは各らの目標————祖国のため、会社のため、科学技術の進歩のため、文化高揚のために励んできた。
30年後、「改革解放」の波にのった宗慶后、呉健民、張亜勤の3人は、それぞれの道で成功を遂げた。しかし、その各人の成功は、日増しに勢いをます祖国と波乱万丈の時代に立脚していることは、否定できない。
個人の奮闘と成功の背後では、国家もまた成長しているのである。
中国で、宗慶后という名前を知らない人はたくさんいるかもしれないが、「娃哈哈」というブランド名を知らない人はまずいないだろう。都市から農村までどのスーパーでも、娃哈哈ブランドの清涼飲料水が売られている。


21年前、宗慶后とその飲料王国は、小さな学校経営の販売部から始まり、登録資金はわずか20万元だった。今日、娃哈哈は中国最大の清涼飲料水企業となった。2007年に、会社の営業収入は258億元に達し、清涼飲料水の生産量、販売収入、利潤、総資産など各種の指標はすべて10年連続して業界トップにある。
宗慶后とその娃哈哈は、20年あまりにわたって中国民営企業がたどる典型的な成長の道を歩んできた。
人生を変えた一枚の任命書
同じ年の人々と同じように、宗慶后の前半生にも時代の烙印が深く押されている。宗慶后もまた、山に登り里に下り、町に戻って工場に入るという経歴をもつ。
娃哈哈社の陳列館には、1987年4月6日付の一枚の古びた任命書が目立つところに陳列されている。
その年、杭州市上城区教育局に付属する経理部(すなわち販売部)は、経営赤字で組織再編に迫られ、新しいマネージャーを必要としていた。新任者のノルマは赤字を黒字に変え、4万元の利益を出すことであった。学校経営の企業に長く勤めていた宗慶后がそれに選ばれた。
「いいでしょう。やりましょう! 私は1年間に10万元の利益を出すことを約束します。」
このとき、宗慶后は42歳だった。中国には「30にして立ち、40にして惑わず」という言葉がある。しかし不惑をすぎた彼は、安定の道を選ばず、危険とスリルに満ち溢れる道を選んだ。
運命にもてあそばれた前半生をもつ宗慶后は、そのチャンスを逃さずぜひがんばろうと決めたのだ。
このときのことを追憶して宗慶后はこのように語る。「この任命書は、私の人生の折り返し点となりました。上城区教育局は私にチャンスをくれました。私を小さな上城区学校経営企業の販売部マネージャーに任命することで、自分の才能を発揮する舞台を与えてくれたのです。」
1987年、杭州市上城区学校経営企業の販売部が正式に設立された。これが、名声赫々たる娃哈哈集団公司の前身となったのである。
児童栄養ドリンクを切り口に
上城区教育局の一枚の任命書は、宗慶后に起業のチャンスを与え、娃哈哈も清涼飲料水業界の花形企業への飛躍を始めた。
しばしば生徒と交流していた宗慶后は、杭州の3000人の小学生の栄養状況について調査を行った。すると、半数近くの生徒が偏食により、大なり小なり栄養不良に陥っていることが判明した。その時代、祖父母や両親が代わる代わる子どもに無理やりご飯を食べさせようとして、家庭で鬼ごっこが繰り広げられていたのだ。彼は、浙江省医科大学栄養学部の朱寿民教授を訪れ、漢方に基づく児童栄養ドリンクの開発を依頼した。
1988年11月、中国初の児童栄養ドリンクが誕生した。「娃哈哈を飲んで、ご飯をおいしく食べよう」という広告が、市場の門戸を開いた。その広告を出した年の販売高は488万元に上り、翌年の販売高はさらに2712万元に急増、3年目には1億元台を突破した。
1989年4月、杭州保霊児童栄養食品工場は、正式に「杭州娃哈哈栄養食品工場」に改名し、競争が激しい中国の清涼飲料水市場に参入した。
この小さな「児童栄養ドリンク」を生産する会社がなぜ成功を収めたのだろうか? 「娃哈哈がドリンクの生産を始めた時、全国で多くの企業が栄養ドリンクを生産していました。しかし、私は市場の空白を見つけました。それは、児童栄養ドリンクでした。だから、子どもの食欲を促進することを切り口にしたのです」と、宗慶后はその時を振り返って語る。
娃哈哈の2度目の転換点は、人々をあっと言わせた企業買収であった。
1990年代から、浙江省はタブーを破り、民営経済を発展させるようになった。
1991年、杭州市の支持のもと、たった100人の従業員で銀行に6000万元の預金がある娃哈哈栄養食品工場は、8000万元の値段で6万平方メートルの作業場、2000人あまりの従業員を持ち、かつて全国でも食品の花形企業であり赤字倒産した杭州缶詰食品工場を買収し、杭州娃哈哈集団公司を組織した。その小が大を食らう革新的措置で、製品や資金、市場のメリットを活かしつつ、迅速に杭州缶詰工場の赤字を黒字に転換した。2年目に、娃哈哈の販売高と利潤は倍増し、無名の小企業がついに大手企業へと生まれ変わったのである。
「農村から都市へ」を経営方針に
娃哈哈の成長史において、「非常コーラ」は欠かすことのできない商品である。
コカ・コーラとペプシコーラは、すでに百年の歴史を持つ、世界の清涼飲料水業界のトップブランド企業である。1970年代末期、中国市場に進出し始め、間もなく清涼飲料水市場の半ばを占めるようになった。
数多くの営業マンとのやり取りで、宗慶后はコカ・コーラ社とペプシコーラ社に共通する弱点を見つけ、再び企業の発展チャンスを捕えた。
1998年、娃哈哈は新しい「非常コーラ」を発売し、コカ・コーラ社とペプシコーラ社に挑んだ。「非常コーラ」は、両社の認知度がひくい広大な農村で、低価格で売り出す作戦を採った。それと同時に、非常コーラはとても安い値段で代理店に卸されたため、どこの店でも目立つところに置かれた。2002年、非常コーラなどの炭酸飲料水の販売高は62万トンにのぼり、全国の炭酸飲料水市場シェアの12%を占め、単品での生産量もすでにペプシコーラの中国での販売高に迫った。
今では娃哈哈社は、全国の工業企業ベスト500にランクインしている。
「私はきわめて普通の人間で、特殊な年代に生まれ育ったため、幼年時代はとても貧しく、中学校を卒業しても家が貧しかったため、高校に上がることができず、農民になりました。」宗慶后は取材記者にこのように語った。「改革開放のチャンスに、私は一介の農民から一人前の企業家、大手ブランド企業のオーナーにまで成長しました。しかも、ゼロから出発した学校経営企業だった娃哈哈社も、中国最大の民間清涼飲料水企業の一つにまで成長しました。水を飲む時は、その源を思い、一滴の恩にも湧き溢れる泉で恩返ししなければなりません。私はもちろん改革開放に報い、より多くの人々に改革開放の恩恵を享受してもらえるよう努めています。」