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張亜勤に会ったのは、さる10月に北京で開かれた「中国改革開放企業発展フォーラム」の席上だった。彼は学者タイプのおっとりとした人物で、改革開放の成果に触れると、彼は感慨深げに語った。「1978年、12歳だった私は、中国科学技術大学少年班に進学しました。改革開放後初の実験的な早期教育を受けたのです。」
30年が経った。当時の少年大学生は、すばらしい科学者、傑出した指導者に成長した。世界一のソフトウェア会社マイクロソフト社の副総裁、マイクロソフト中国研究発展グループの主席を務める張亜勤は、しばしばメディアに取り上げられる人物である。
「『神童』としての経歴をよく人に話題にされます。」張亜勤は取材記者に言った。実際、彼は神童であった。その経歴がなければ、今日の張亜勤はないだろう。小さい頃から趣味が多く、文革で行われなくなっていた大学入試の回復前には、山西省のある芸術学校の受験を申し込んでいたこともある。
張亜勤はこう言った。「1978年は私の運命を変えた年であり、中国の運命が変わった年でもあります。」
10月24日、中国改革開放企業発展フォーラムに出席した張亜勤 写真 段崴
1978年、12歳だった私は、中国科学技術大学少年班に進学しました。
2003年、マイクロソフトアジア研究院を訪れたキッシンジャー博士 写真 マイクロソフト(中国)有限会社提供
最年少の大学生


全国科学技術大会が開かれた1978年3月、安徽省合肥市にある中国科学技術大学は中国でもっとも有名な大学となった。この大学は北京大学、清華大学と同じようなすばらしい学生と教師と、英才少年養成班をもっていた。この少年班は、文革後まもなくして李政道、楊振寧、丁肇中らの科学者の提唱によって設けられたものである。一時、科学技術大学少年班の神童に関する報道は、もっとも人々の目を惹きつけるニュースとなった。張亜勤はそのうちのひとりだった。
1966年、張亜勤は山西省太原市のインテリ家庭に生まれた。5歳の時、突然の災害で父親と永別した。母親と祖母の教育のもと、幼い亜勤は間もなく独力で生活や学習を行えるようになった。彼の数学と自然科学に対する興味はどんどん増してゆき、同級生たちがまだ学校のテストに悩まされていたとき、彼の読書範囲は遥かにその年のそれを超えていた。
傑出した学習能力によって、彼は何度も飛び級をして、11歳のとき中学三年生となり、神童とよばれるようになった。
1977年、13歳の天才少年寧鉑が中国科学技術大学に合格し、全国で神童ブームが起こった。新聞で寧鉑の報道を読んだ張亜勤は、寧鉑ができるなら自分もできると思った。そして1978年の夏、12歳の張亜勤は、ほかの600万人の受験生と共に大学入試の試験場に足を踏み入れた。
当時の試験場は、受験生の年齢差が大きく、30、40歳の人もいた。自分の子どもが張亜勤よりも年上である受験生もいた。しかしすべての受験生が同じ問題を解いた。
張亜勤は数学の試験で満点をとって中国科学技術大学少年班に合格し、その年中国で最年少の大学生となった。あこがれの寧鉑が大学に合格した年よりも一歳下だった。
アメリカ留学
改革開放と大学入試回復の受益者・体験者として、張亜勤と似た経歴をもつ人々は、たとえば有名な作曲家の譚盾、経済学者の張維迎など、各分野でのエリートとなった。そして彼らの多くが海外留学を経験した。
1986年、20歳の張亜勤は夢と自信を胸に、ワシントン大学に留学するためにアメリカの首都ワシントンに渡航した。
理論知識を豊かにもつ彼は、アメリカで多くの実践のチャンスを得て、目の前が突然開けたような感じを受けた。「急に自分が好きなことを見つけたようで、やっているすべてのことが自分の知識と結び付き、毎日を楽しく過ごしました。」
1997年、わずか31歳の張亜勤博士は、IEEE(アメリカ電気電子学会)会員に選ばれ、学会史上もっとも若い科学者となった。
「私は長い間研究に従事してきましたが、実は感情的な人間なのです。アメリカでの13年間、ずっと『人民日報』海外版の忠実な読者でしたし、心の中では帰国して何かをやらなければとずっと思っていました。」
このような祖国に対する未練があったからこそ、マイクロソフトにいた李開復から、帰国して共にマイクロソフトの中国研究院を立ち上げようと電話を受けたとき、張亜勤は即諾した。1998年末、マイクロソフト中国研究院が正式に成立した。これはマイクロソフトがイギリスのケンブリッジにつくった研究院に次ぐ2番目の海外研究院である。
成立当初、マイクロソフト中国研究院はわずか数人しかいなかった。10年後の現在、マイクロソフト中国研究開発グループはすでに3000人の従業員を有し、中国における多国籍企業のうち最大の総合開発機構となっている。これには、張亜勤の功労は無視できない。
2008年11月13日、モトローラ社アジア太平洋区総裁と中国区取締役とを兼任していた梁念堅が、マイクロソフト社の中国地区の取締役兼最高経営責任者となり、張亜勤は1年間代理していた中国地区最高経営責任者の兼職を辞任し、マイクロソフト中国開発グループの仕事に専念するようになった。
これはより張亜勤の希望にそった結果であり、研究開発こそ彼が興味を持つものなのである。「中国の英知で世界に恵みをもたらすのが、ずっと私の夢でした。」
「とにかくやってみよう。だめかもしれないけど、やってみないことには、成功するはずもない。」これが、12歳のとき中国科学技術大学を受験して以来、張亜勤がずっと持ち続けている信念である。