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30年の奮闘史 呉建民
22歳で外交界に入った古参の外交官で、かつて毛沢東、周恩来、陳毅らの先一代の国家指導者の通訳をしたことがある。1991年から1994年まで、外交部新聞局局長、後にオランダ、スイス、フランス駐在特命全権大使を歴任した。
外交教育家でもある。2003年、フランス大使を退任した彼は、中国外交学院院長のポストにつき、外交人材の養成に力を注いでいる。
「魅力的な外交官」と呼ばれた彼は、2003年12月に、博覧会国際事務局の議長に選ばれ、2005年に再任された。これは、初めての中国人、初めてのアジア人、初めての発展途上国出身者の議長である。
これが数十年にわたって中国の外交事業に尽力し、改革開放をこの目で見届け、対外交流の拡大に自ら携わってきた呉建民氏である。
中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議が開かれた1978年以降、中国では大きな変化が起こった。変化の大きさ、影響の広さはわれわれの想像を遥かに超えた。西側の国家の中国に対する認識も、当初の「懐疑論」から「崩壊論」「脅威論」、現在の「責任論」にまで変わってきたが、その変化はここ30年の中国の高度経済成長を原因とする。
「懐疑論」から「崩壊論」まで
若き日の呉建民
2003年6月に、フランスのシラク大統領から、レジオン・ドヌール勲章を授かった
ブリュッセルで、アメリカ元国務長官キッシンジャー氏と面会した外交学院院長呉建民
国連人権委員会の会議に出席した呉建民
2004年に開かれた上海万博国際フォーラムで、博覧会国際事務局局長として講演をした呉建民
冷戦終了前の1978年から1989年にかけて、西側の中国に対する認識は、ほとんど東西対立の角度から見たものであった。中国の改革開放は旧ソ連のそれと同じではなく、悪いことではない。なぜならば、彼らにとって主要な敵は旧ソ連であったからである。しかも、西側は中国の現代化の成功を疑っていた。そのため、この時期の中国に対する見方はほとんどが「懐疑論」となっていた。1978年から1989年までの12年間、中国に入った外資の総額はたった150億ドルで、今日の8000億ドルに比べると、ほんのわずかなものだった。
1983年、私は外交学会から外交部に戻り、政治研究室に勤務した。当時、中国の電話システムは極めて立ち遅れていた。長距離電話を掛けたときは、懸命に叫ばなければ、向こうが聞き取れなかった。電話システムを完備するには、西側の技術を導入するよりほかはなかった。当時、ベルギーのベル電話社が、中国と合弁でデジタル電話を生産しようとしていた。しかし、このプロジェクトを実現させるためには、アメリカの許可をもらい、パリにあるココム(共産圏輸出統制調整委員会)の技術封鎖を突破しなければならなかった。そこで、当時の呉学謙外交部長が、ベルギーの外務大臣にアメリカに働きかけてもらい、後に中国電話システムに重大な影響を及ぼした上海ベル合資会社が成立した。
1989年から1996年にかけて、中国の政権が間もなく変わると予言する「崩壊論」が、西側で世論を牛耳っていた「懐疑論」に取って替わった。1989年、天安門事件が起き、西側諸国は中国に対して制裁を行った。当時、東欧では激変が生じていて、旧ソ連も解体寸前であった。西側世論の主流は、中国もこの世界的な激変の波に抵抗できず、崩壊するといったものだった。
1989年1月から1990年12月まで、私はベルギー駐在大使館と駐欧州委員会の副大使を務めていた。1989年1月、私がブリュッセルに赴任した際、ベルギー欧州委員会の高官に会ったが、そのときはまだ交流のドアは開かれていた。しかし、事件の後、状況は大きく変わり、私はベルギー外務省アジア部と欧州委員会対外関係本部の中国課課長にしか会えなくなった。あるとき、私はその課長と昼食を共にする約束をしていた。しかし、その日レストランに着いてから、彼の電話を受けた。彼は「上司の指示により、今日の昼食に行けなくなりました」という。外交では、約束を守るのはとても大事なことで、約束をそのときになって取り消すのは、相手に対して極めて失礼なことである。しかしこの時、彼らはどうせ間もなく崩壊する中国を尊重しなくても構わないと考えたようだった。
天安門事件の後、西側の政治家・学者・中国通たちはみな、中国経済は間もなく崩壊し、改革も失敗し、政府はつぶれ、内戦が起きるだろうと分析していた。
1990年の初め、劉山大使が離任した後、私はベルギー駐在大使とEC駐在代表に就任した。それから半年の間、私は依然として欧州委員会の高官に会うことができなかった。ある日、欧州委員会対外関係副委員長が、アジア諸国の大使らを昼食に招き、主催者の「恩恵」により、私も招かれた。昼食会前のちょっとしたカクテルパーティで、この副委員長は大使一人一人と握手をし、私も彼と握手した。しかし、握手をした瞬間、彼は私と話をするつもりはなく、単に儀礼的にしただけだと悟った。
パーティの最中、この副委員長事務室の主任と私は話を交わし、中国についての質問を受けた。この人は中国に興味を持っているのだと思い、こんど時間があるときにいっしょにランチを食べましょう。そのときに中国の状況を詳しくご紹介します、と言った。しかし、彼は突然仏頂面になり、横目でこちらを見やって言った。「3カ月後に、貴国政府がまだあるでしょうかね。」これを聞いた私は、かーっと頭に血が上った。しかし、外交の席で暴力を振るうことは許されない。そこで私は機転を利かせて言った。「ヨーロッパの諺では、最後に笑う者が一番良く笑うそうですね。まあ見ていてください!」今、彼は私に合わせる顔はないだろう。
「脅威論」から「責任論」まで
1997年7月2日、アジアで突如、深刻な金融危機が発生した。アジア諸国の貨幣価値は大幅に下落し、株価も暴落した。西側の有名な学者は「アジア経済の奇跡はここで終結する」と言った。この厳しい経済情勢は、中国が改革開放を実施して以来、初の逆境であった。アジアの金融危機により、人民元は切り下げという巨大なプレッシャーにさらされた。西側では、人民元の切り下げは避けられないと推測されていた。しかし、中国政府は敢然と「人民元は切り下げない」と世界に宣言した。中国政府は約束を守った。アジア貨幣の切り下げの大波は、中国によってせき止められた。アジア諸国は、第二次の貨幣切り下げを避けることができ、不況から抜け出すための時間を稼いだ。
中国政府は人民元を切り下げるどころか、内需を刺激する強力な措置を打ち出した。中国経済の発展史から見ると、1997年は重要な折り返し点であった。1997年以降の11年間、中国のインフラ施設建設は大きな改善を見せた。1997年、中国の高速道路の長さは2000キロしかなかった。今日の高速道路の長さはすでに5万4000キロに達し、全国をカバーする高速道路網がすでに形成されている。インフラ施設の整備によって、引き出された内需は大きかった。それと同時にアジアの供給網がつくられ、中国経済が迅速でかつ安定した成長を続けるだけでなく、アジア経済の振興をもたらした。アジア経済の高度成長が終わるという予言はすっかり外れた。今日のアジア経済は依然として世界でもっとも活力を持つものである。
アジアの金融危機にうまく対応した中国は、世界を驚かせた。私がフランス駐在大使だった1998年から2003年までの5年間、アジアの金融危機はすでに過ぎ去っていたものの、当時フランス銀行総裁で現欧州銀行総裁トリシェ氏などが、アジア金融危機に際して中国政府がとった処置を褒めるのをよく耳にした。中国の危機対応措置は、アジアと世界経済の継続的な成長に対して重要な役割を果たしたのだ。
アジア金融危機以後、中国経済の高度成長を見た西側では、「脅威論」が「崩壊論」に取って替わった。この論調は、今でも西側で広く流布されている。そのロジックは非常に簡単で、旧ソ連は共産党に支配された政権で、国が強くなると侵略・拡張を始めた。中国も共産党政権だから、強くなると旧ソ連と同じ道を歩むはずであるというものだ。「崩壊論」では中国は間もなく崩壊するとし、「脅威論」では中国はこれから強くなるとしている点で両者は異なるが、中国を災いの種だと考える点では共通している。
2005年9月21日、時のアメリカ国務省副長官ゼーリック氏は、米中国全国関係委員会で「中国はどこに行くのか」という講話を発表し、中国は国際システムにおいて「責任を持った利益関係者」になるべきだと指摘した。この講話はある意味、西方諸国の中国に対する認識を反映している。この「責任論」は、「懐疑論」「崩壊論」「脅威論」とは違い、中国を多少なりとも責任を負える国家であると見ており、中国に対する認識がマイナスからプラスへと変わってきたことを示している。もちろん、責任の範囲について、中国と西方諸国との見方は異なる。中国が考える責任とは、中国人民と世界人民の根本的な利益に基づいたもので、中国の地位に相応しい責任であり、他国が指定するものではない。
「責任論」の登場は偶然のものではなく、中国の台頭と密接に関わっている。スイスのダボスで年に一度行われる世界経済フォーラムは、世界の動きにじかに接触できるところである。2007年の世界経済フォーラムでは、「中国はどのような世界の形成を望んでいるのか」をテーマにした討論が行われ、中国全人代副委員長成思危氏と欧米の有名なエコノミストが討論に参加した。数十年にわたって、私は外交官として多くの国際会議に参加したが、中国をテーマにした国際会議に参加したことはいまだかつてなかった。このテーマの出現は、決して偶然ではない。1840年のアヘン戦争から百年あまりの間、世界は中国に「どのような世界を望んでいるのか」と聞いたことはなかった。この長い間、中国は西側列強の侵略・搾取の対象でしかなく、彼らはどのような世界をつくるか、中国の意見を聞いたりはしなかったのである。しかし、今日の世界は中国人の意見を聞くようになった。
2008年は間もなく終わる。この年は中国人にとって忘れ難い年である。中国の百年にわたる念願のオリンピック大会が北京で開催されたのだ。今回のオリンピック大会は、オリンピック史上、もっとも世界に注目された大会となった。世界の45億人が北京オリンピック大会をテレビで観戦した。私は数回の外国出張の際、欧米や日本の人々の、北京オリンピック大会の開催成功、中国政府のオリンピック大会における組織能力・動員能力・執政能力への賞賛を幾度となく耳にした。
西側世界の過去30年にわたる中国に対する認識は、変化し続けてきた。まだ偏見があるとはいえ、中国は発展と進歩の過程にある。中国の世界の平和と発展に対する貢献はますます大きなものとなり、これはいかなる偏見にも遮られることはないだろう。これもまた、西側が中国に対する認識を絶えず変化させてきた主な原因なのである。