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30年の証人 カメラは嘘をつかない
人々が歴史を回顧するとき、写真にまさる訴求力をもつものはない。
30年前、思想・経済・文化がともに活発化しはじめ、中国の現場報道写真もまた盛んになった。「歴史に空白を残しておけない。」メディアの報道カメラマンが出現し、手中のカメラを人々に向けた。中国のフォトバンクのなかに、初めて自分たちが人々の生活を切り取った映像が加えられたのである。
安哥、賀延光、王文瀾。中国改革解放30年の写真を振り返るとき、必ず挙げられる3つの名前である。30年間、カメラは真実を語りつづけた。歴史の記憶は彼らが残した貴重な写真によって命を与えられ、生きた真実となって今に残るのである。
安哥は第一世代の「祖国の花」である。文革初期、彼はカメラを抱えて各都市を歩き、彼の人生計画をスタートさせた。10年にもわたる文革の動乱のなかで、彼はシーサンバンナで7年を送り、彼の終生忘れがたい記憶となった。改革開放後、彼は報道カメラマンとなり、南方における中国の改革開放の熱い潮を自ら体験した。彼は自然体で取材したが、生き生きとした観察力は失わず、無数の普通の人々の生活から、波乱万丈の開放の時代を描ききった。2001年に、『鄧小平時代の生活————写真で見る80年代』と『鄧小平時代の生活————写真で見る90年代』という個人写真作品集が出版された。





1966年8月、文革が始まったばかりのころ、私は同級生とともに「大串連(文革中に中央が全国の学生を北京に、北京の学生を全国に送り、交流を促したもの)」の名のもとに、全国の10あまりの省の都市や山河をめぐった。内蒙古、甘粛、新疆、西安、四川という旅程のなかで、私は一本の竹笛と日本製のPETRI2.8カメラをたえず持ち歩いていた。このふたつは人生という大海の中に私を送り出した物のように私は感じる。
1968年2月、21歳のとき、同級生とともに北京からシーサンバンナのタイ族自治州に行った。そこにある東風農場で働き、7年の歳月を送った。
1975年、28歳のときやっと広州の家に戻り、まず4年、労働者として働いた。1979年32歳のときに、中国新聞社広東支社の報道カメラマンとなり、とうとう自分が望んでいた職業につくことができた。
月日が経つのは早いもので、還暦をすぎた私が過去を振り返ると、新中国の半世紀以上にわたる風雨を自ら体験し、ここ30年の身の回りの変化をこの目で見届けたことになる。
広東は中国の「南の門」で、中国でも最も早く対外開放された場所である。改革開放により、ここは中国の開放の窓口となった。このときから、私などの会社の若い記者たちはみな、この大いなる時代のさまざまな姿を見てきたのである。
1981年、私は佛山地区を広東省僑匯工商会議の取材で訪れた。海外にいる中国人からの中国への送金を奨励するため、地方ではさまざまな優遇政策を制定しており、そのなかのひとつに、華僑の送金で機械や設備を買って、家族経営の小工場を開き、華僑の家族の就業問題を解決しようとする政策があった。始まったばかりの頃は、政府は個人が開いた工場は最大でも5人までしか従業員を雇えないと規定し、搾取とはいえなかった。しかし、しだいにそれが10人、20人と増えてゆき、最後には外国資本による工場が、雨の後のたけのこのように珠江の三角州一帯にできていった。当地の農民は次から次へと畑から「足を洗い」、工場へと向かっていった。私は改革解放の大きな波のなかで、華僑送金による投資政策で、華僑の家族らが自ら生産に携わることで身代を築く、初めての「打ち出の小槌」を手に入れたのを目撃したのである。
私の家のうしろにある高第街は、広州市の中心に古くからある通りである。この通りはもっとも早く個人経営の洋服を売る屋台に開放され、ファッション街となったところで、広州でも全国でもその名を知られている名物通りとなり、観光客が必ず訪れる場所となった。90年代の北京の秀水街、香港の廟街(テンプル・ストリート)、女人街のようなところである。私はこの通りの写真をたくさん撮っている。1998年12月、中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議開催二十周年記念号の『羊城晩報』に、80年代に私が撮った写真が全紙面を使って載せられ、そのタイトルは『まなざし』であった。これはまさに開かれたばかりの「南風を吹く」時代的特徴を捉えたものである。私が撮ったそれらの人や環境や物は、みなその時代を語るシンボルであり、われわれにその時代の物語を語りかけてくれるものなのである。