日はまた昇る
――四川地震被災地の再建記録
文と写真 陳 建
2008年12月28日、四川。
真冬にもかかわらず、北川に通じる道路の両側は青々としていた。それは力を蓄えて成長しようとしている菜の花である。3カ月後には、この土地で最も早く春を迎える菜の花を見ることができるだろう。
7カ月前、この土地には、一面の菜の花が咲き誇っていたが、収穫の人はやって来なかった。竜門山の断層帯の震動により、わずか数分でその土地と無数の生命が打ち砕かれてしまったのだ。
被災地の再建の日々は困難なだけでなく、悲哀や苦しみに満ちたものであったろう。しかし、四川人の楽観、ユーモアと向上心は、一刻も止まらずに流れる長江の水のように尽きることがない。
このような力を記録するために、私は再び被災地に行って、被災地の現在のほんとうの姿を知ろうと思った。
四川地震の被災地を再訪したとき、その再建は、一つの土地を変えただけでなく、そこで生活している人々を変えたように感じた。生活は苦しいが、文句を言う人は少ない。人々は己の力の限りを尽くして生活条件を改善しようとしており、それが生活の主旋律となっている。
地元の人々の未来への展望はいまだ漠然としているが、彼らは子供のような理想を持っている。
日はまた昇ることを信じているのだ。
汶川の映秀
2008年5月12日、地震のため、汶川は広く知られる地名となった。映秀は不幸にも今回の地震の震源となった場所である。映秀大道と呼ばれる道路が漩口中学校跡と新築のプレハブ住宅との間を横切り、過去と現在のボーダーラインとなっている。平坦な映秀大道の真ん中に立つと、西は漩口中学の廃墟で、東は生存者が住んでいるプレハブ住宅だ。2009年の映秀は、片足を過去に、片足を未来に踏まえている。
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新年もかかわらず、昼下がりの映秀鎮の街中には、祝日の雰囲気はあまり感じられない。被災民の臨時住宅では、年寄りたちはタバコを吸い、女たちは家事に忙しく、子供たちは三々五々集まって遊んでいる。再建作業に忙しい建設労働者のほかは、地元の働き盛りの男性の姿はあまり見られない。彼らは生活のために出稼ぎに行っているか、地震で被災したのだろう。 |
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都江堰から汶川までの道路は地震で完全に破壊されたが、たゆまぬ労働によって、新しい道路が昔の道路の横に開通した。この道を通って被災地の人々の生活用品、再建のための資材が四方八方から運ばれてくる。 |
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旧正月も間近のある日、臨設の自由市場で野菜を買う汶川県映秀鎮の被災民。市場には四川の各地から運ばれてきた食料品・日用品が売られていて、物資は豊かである。 |
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2009年1月7日、映秀漩口中学校跡。2008年7月、地震で生き残った漩口中学校の生徒と先生は山西省長治に赴き、異郷で授業を再開した。漩口中学校の物理の張先生(左から2人目)は、冬休みになるとすぐ家族を連れて映秀に戻り、かつて仕事をしたり生活をしたりしていたこの地で、思い出を探す。 |
鉄条網に囲まれた北川
2009年1月2日、私は再び北川にやってきて、鉄条網に囲まれた北川県都を見た。
たとえ北川の人でも、特別通行許可証がなければ、町の外の山にある望郷台に立って、遠く町を眺めるよりほかはない。
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2009年1月3日、北川中学校跡のそばに建てられた仮設住宅で、礼服を着た男女が結婚式を行った。花嫁の李果と新郎の李彦霖はともに北川出身で、地元で恋に落ち、新婚部屋が仮設住宅であろうとも故郷で結婚式を行うことを望んだ。花嫁の李果は北川曲山鎮診療所の医療スタッフで、「5·12」地震で、彼女は負傷者の救助中に、落ちてきた瓦礫が頭部に当たり重症を負った。傷の治療のため武漢に運ばれ、その期間、李彦霖は彼女に付き添い、あれこれと世話をやいた。彼女が職場に戻り被災地のために働けるよう、2人は相談し、以前から決まっていた2008年10月の結婚式を現在まで延ばしていた。 |
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精巧な手法を使って、美しい図案を施した北川チャン族自治県の伝統民族工芸————チャン族刺繍は、今や地震の被災地の人々の生産回復、収入増加のための新しいモデルとなっている。 |
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チャン族の刺繍、チャン族の歌舞は、チャン族が5000年余りにわたって伝承してきた技である。地震の後、勝利村のチャン族は特有の民族文化を生かして育成訓練クラスを開設し、チャン族の刺繍工場を経営し、安定した収入を得た。村の党支部書記席成友は3万元を投資し、勝利村のために「禹羌文化拓展有限公司」を登録した。村全体で一人あたり少なくとも10元を出し、年末までにあがった利益を分配する。「チャン族の刺繍を行うのは、主にチャン族の刺繍製品を市場に浸透させることで、チャン族の民族文化を広げ、振興させるためです」と、席成友は語る。彼は自分でお金を出してチャン語と歌舞の講師を招聘し、村人に教えさせている。 |
什 邡
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2009年1月5日、鎣華学校の仮設教室の前の「不完全」な集合写真。地震の前には45人いたこのクラスの生き残りである。 |
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2009年1月4日、什邡市中医病院の病室。紅白中学校高校一年生の李剛とその母は地震で重傷を負った。2人は全身の数箇所を骨折し、いくつかの病院を転々として治療を受けた。今や母子は同じ病院、同じ病室で最後の手術を受け、体内にある骨を固定していた金属を取り出す。数日後には、母子は全快し退院するだろう。 |
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2009年1月4日、什邡羅漢寺。2008年5月18日に什邡羅漢寺で生まれた唐歆頴は、地震のときに住職と僧侶たちがしてくれたことに感謝するために、両親に連れられ羅漢寺にやって来た。母の李娟によると、子供も6カ月となったので、助けてくれた羅漢寺の僧侶たちに見せ、心からの感謝を述べたいと思ったという。2008年5月12日から7月末まで、什邡羅漢寺ではあわせて108人の新生児が生まれ、その中の88人は禅を組むための床の上で生まれた。素全住職は17人の新生児の名付け親となった。 |
綿 竹
「5.12」四川大地震で、綿竹の被害は北川と汶川に次ぐものであった。死亡者数は1万人以上にのぼった。町の80%と農家の家屋は一面の廃墟と化した。現在、県都にいる10万人余りはみな仮設住宅に住んでいる。県都の周辺にもいくつかの仮設住宅区があり、一つの仮設住宅区に5~10万人が住んでいる。
二号立体交差橋にある仮設住宅区は以前は野菜畑だった。今や、青々とした野菜と、本屋にいる溢れんばかりの人、運動場での子供たちの笑い声が、仮設住宅区の活気に満ちた生活を垣間見せている。毎朝、橋の下で剣舞や太極拳をする人々や、夕暮れ時の仮設住宅から聞こえてくる琴の音は、ここに暮らす人々の楽観的な向上心を示している。前より住まいは快適とはいえないが、災害にあったばかりの人々は、一家団らんの暖かみをより痛切に感じ取っていて、それによって心の傷を癒しているのである。
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2009年1月5日、綿竹遵道鎮棚花村。村人の張さんとその妻は新しい家の最後の飾り付けを行った。棚花村は5月12日の地震で,69戸の村の家屋はすべて倒壊し、大きな被害を受けた。今や村には政府の補助と自分たちで調達した資金によって新しい家屋が建てられ、新年を祝う絵が壁面を飾っている。 |
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2009年1月6日、徳陽市の身体障害者リハビリセンター。香港から来た専門の看護士が、馬さんに義足の使用方法を教えている。四川省衛生庁によれば、2008年12月25日まで、四川では6000人以上の負傷者のリハビリと治療を終え、入院患者のうち823人、全体の0.9%が手足の切断手術を受けた。退院者数は5302人で、1009人は現在もリハビリ中である。 |
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2008年12月31日、234日間中断していた授業開始のベルが再び四川遵道学校の教室棟に鳴り響いた。万科公司の全額の寄付金で建てられた四川綿竹遵道鎮学校の本館と診療所総合棟の交付式が行われ、地震の後、企業の寄付金で建てられた最初の恒久的な公共建築となった。三階建てのこの建物は36の教室があり、1700人が収納でき、規定された最高の耐震度に達している。 |