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数千年もの間、チベットは高い山々に隔てられていた。チベット族はここでずっと生活しており、古いチベット文明はここで受け継がれ、叙事詩はここで書き記された。過酷な自然条件や残酷な社会制度もここでは長く続いた。1951年にチベットは平和解放されたが、依然として僧侶・貴族の独裁による農奴制下におかれた。百万人を数える農奴が、ひどい貧困と苦難にあえいでいた。チベット民族は、生まれ変わる時を心待ちにしていた。
1959年3月、チベットの支配階級が、「十七条協定」を破棄して、祖国分離を旨とする武装反乱を起こした。反乱は間もなく平定され、チベットで行われる民主的な改革に有利な条件となった。反乱平定の日から、偉大な民主改革の幕が厳かに開いた。千年も続いた政教一致の封建的農奴制がとうとう廃止され、自由と民主の光が古い時代の暗黒を突き破り、高原のいたるところを照らした。
チベットの民主改革は、千年続いた政教一致の封建的農奴制を打ち破り、かつての農奴たちは、土地や家屋、家畜を手に入れ新しい生活をスタートさせた。かつての借金だらけの小作人としての苦しい生活に別れを告げ、国や土地の主となり、自分自身を取り戻した。
2009年1月19日、チベット自治区の立法機構は、50年前の偉大な民族解放運動を記念し、先駆者を称え後世に伝えるために、毎年3月28日をチベットの「百万の農奴の解放記念日」とする議案を採択した。アメリカが奴隷制廃止の日を設けてその歴史の終わりを宣言したように、チベットの「百万の農奴の解放記念日」は、チベットの封建的農奴制の終焉を人々に再度強調するためのものであった。
50年前、チベットはまだ中世の闇の中にいた。それは、おろかで野蛮な、時代遅れの政教一致という政治制度のためであった。千年近く続いた農奴制は、三大領主(旧政権、貴族、上級僧侶)にとってはパラダイスだったが、数百万にのぼる農奴にとっては、まさに地獄であった。
元代(1271~1368年)以前に、チベットは農奴制社会に入っていた。農奴は普通、領主に使役されるチャバ、農奴主や代理人にわずかな土地を分け与えられ耕作するタイキュン、いかなる生産手段も人権もなく、農奴主に話す家畜と見なされ、自由に売買や譲渡、債務返済の手段や交換物として使われ、ひいては命さえも奪われるランシャンの3種類に分けられる。1959年以前は、総人口の5パーセントの農奴主が、チベット全体の生産手段や文化的資源、物質的・精神的な財産を独占し、総人口の95パーセントを占める農奴は、生産手段や自由がいっさいない、極めて過酷な圧迫と搾取を受けていた。この2つの階級の間には極端な差異があり、バランスを失ったこの社会には、公平と公正がまったくなかった。千年もの間、封建的農奴制は、チベット社会から生気と活力を奪い、この海抜がもっとも高くもっとも明るいこの地は、悲哀と闇に満ちていたのである。
ラサから50キロ離れたドォルンデチェン県のセシン村に、14代ダライ・ラマのタンツンジャツォ家の荘園が保存されている。かつては、わずか10年間に、5人もの農奴が殴り殺され、11人が不具になるまで殴られたこともあったと、村の年寄たちは語る。
チベット博物館には、十数枚のモノクロ写真があり、それから当時の悲惨な情景を見ることができる。両目をえぐられたブード、指を切り取られたバンドル、鼻を切り取られたビンベン、両足の靱帯を引き出されたザシ……。
ダライ・ラマの誕生日を祝うために、人の生首、人の生血、人の皮を供え物にするよう命令が下されたこともある。
チベット自治区の資料館には、1940年代のチベット貴族の手紙が保存されている。そこには、「昨日、あなたとのマージャンで負けた、3人の農奴、7匹のウマ、20枚の銀貨をお送りします」と書いてある。当時、農奴は家畜・銀貨と同じように取り引きされるものであった。この手紙には、人権と人間性に対する蔑視が現れている。
政教一致の古いチベットは、民主や人権からほど遠い土地であった。当時の支配階級は、無数の生命に対する生殺予奪権を握っていた。それは、チベット語と漢語の資料に夥しい記載があるほか、外国人の紀行文にも記されている。
エドモンド・チャンドラーの『ラサの素顔』の中には、「ラマ僧は皇帝のような存在で、農民は彼らの奴隷である。ラマ僧たちが精神的恐怖手段を使って影響力を維持し、政権を握り続けているのは間違いない」と書かれている。チャールズ・ベルの『チベット誌』には、「チベットはいまだ封建時代にあり、貴族が大権を握っている。貴族と僧侶は、共に政権における重要な地位を独占し、寺院に負けないほどの莫大な財産を持っている。貴族は小作農に対して、家畜の没収や罰金、鞭打ち、短期拘禁などの処罰を行い、公の権力を振るうことができる」と書かれている。
1959年以降、中央人民政府はチベット民衆の願望に応え、チベットで民主改革を行い、極端に腐敗した封建的農奴制を廃止し、百万にもおよぶ農奴を解放した。農奴はその時から自由と権利を獲得した。旧チベットの法律・法規は廃止され、人々を幾層もの階級に分けることはなくなり、各種の野蛮な刑罰は禁止され、私設の監獄はすべて取り壊された。新中国の憲法と法律は、チベットの人々の生命の安全と権利を保障している。
民主改革では、農奴主による生産手段独占を改め、反乱に参加した農奴主の土地を無償で土地をもたない農奴や奴隷に分配し、反乱に参加しなかった農奴主の土地と生産手段を買い上げる政策が実施された。1300万戸の反乱に参加しなかった農奴主と代理人の6万ヘクタールの土地と2万頭あまりの家畜が、国家により4500万元で買い戻された。
1961年、チベット各地でチベット史上初の選挙が行われた。解放された農奴と奴隷は初めて民主的な権利を持つようになった。チベット自治区が成立した1965年から、チベットの民衆は、憲法と法律で与えられた選挙権と被選挙権をもち、チベット族やほかの少数民族の指導者がチベット自治区の指導者の中心となった。
民主改革は、古いチベットの封建的領主制にピリオドを打ち、人民が主体の政治制度を実施し始めた。新中国の憲法によって、チベットの人々は全中国の人々と同じように、国家の主人公になり、法律が規定するすべての政治的権利をもった。
反乱平定と民主改革実施ののち、チベットの人々は憲法や民族区域自治法で与えられた各権利を充分に行使し、かつての農奴が社会主義新チベットの主人公となった。チベット自治区のすべての満18歳以上の公民は、民族、種族、性別、職業、出身家庭、宗教信仰、教育レベル、財産状況、居住期間を問わず、選挙権と被選挙権を持っている。しかも、彼らは直接各県、区、郷、鎮の人民代表会議の代表を選出し、さらにこれらの代表によって全国、自治区、市の人民代表会議の代表が選出される。各クラスの人民代表大会によって、人々は国家、地方行政を管理する権利を行使している。
現在、自治区クラスの指導者は、チベット族と他の少数民族が7割以上を占めており、74の県(市、区)委員会、人民代表会議、政府、政治協商会議の主要リーダーと682の郷、鎮の共産党委員会書記・郷長も、チベット族と他の少数民族が8割以上を占めている。
「ヒマラヤは高いといえども頂があり、ヤルツァンボ川はいくら長くても源がある。チベットの人々がいくら苦しいといっても終わりがある。共産党が来て、苦しさは甘さに変わった」と、チベット族の歌手が歌う美しい歌声は、チベット各族の人々に共通する心の声を伝えているのだ。