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私は中国の改革開放の恩恵に与った
————マイクロソフト中国地区副総裁、劉鳳鳴インタビュー
文 楊雪岐

 

 

200810月より、マイクロソフト社(中国)は中国の一部のユーザーに対してWGAOGAと呼ばれるふたつの計画を実施し始めた。この計画が始められたのち、マイクロソフトの海賊版を使用している中国国内のコンピュータに変化がおこった。コンピュータの画面が一時間ごとに海賊版であることを知らせるために真っ黒になるのである。そのほかにも「マイクロソフトオフィス」の使用許可を受けていないユーザーは、ソフトの使用中、マイクロソフトから海賊版に対する警告を絶えず受け取ることになる。これは一部のインターネットユーザーに「ブラックスクリーン」計画とよばれた。この計画が行われるやいなや、業界やネット上に大きな波紋を呼び起こした。北京のある弁護士は公安部に、これはマイクロソフトがコンピュータのユーザーの同意や司法裁判を待たずコンピュータシステムに侵入し、妨害と破壊を行った行為であり、ユーザーの所有権と法律の尊厳を無視したマイクロソフトのこの行動は、中国最大のハッカー行為にあたるとして、告発した。彼は司法機関にすぐさまこの行為に対して調査を行い、マイクロソフト社の「ブラックスクリーン」計画の刑事責任を追及し、すぐさまこれを停止させるよう要求した。インターネット上でもマイクロソフトを非難する書き込みが相次ぎ、マイクロソフトは一時、皆の憎まれ者となった。

記者がマイクロソフト大中華区副総裁である劉鳳鳴に会ったのは、マイクロソフトが中国のブラックスクリーン騒動のまっただ中にあったときで、劉は携帯電話を耳にあてっぱなしで、アメリカの本部に「ブラックスクリーン事件」の経過を報告し、中国市場の特殊な状況について説明していた。

劉鳳鳴の気楽な表情から、この難関も無事くぐりぬけたことを伺い知ることができた。中国の改革開放30年を身をもって体験した者として、彼の経歴がマイクロソフトが中国を深く理解する助けになることは間違いない。

農村での生活からワシントンへ

中国西部にある甘粛省には、水資源に乏しい定西県というところがある。ここは中国でももっとも貧しい地方のひとつで、「天下で最も苦しい家」と呼ばれる。1974年、17歳の劉鳳鳴は彼の同級生11人とともに下放され、故郷をはなれ、この地にやってきた。

2年後、甘粛省は農村で労働者募集を行い、それに選ばれた劉鳳鳴は、蘭州で研修を受けることになった。「当時、私には3つの選択肢がありました。警備員になるか、ホテルの従業員になるか、レストランの従業員になるかです。当時は、農村で苦しい生活を3年送ってきたばかりでしたから、ご飯をおなかいっぱい食べることがとても重要なことに思え、レストランの従業員になることを選び、蘭州飯店で2年近く働きました。」

この2年の間に文化大革命がおわり、大学が学生の受け入れを復活させた。

当時、大学を受験するのはとても大変なことであった。多くの人が勉強をし直す機会もなく、さらに、すでに仕事や家庭をもっていて、勉強に精力を傾ける時間がない受験生も少なくなかった。「私は当時はまだ若く元気な若者でしたから、勉強にも力が入りました。しかし、その実、大学とはどのようなところであるのかも知らず、何かをまた勉強するのだろうくらいに考えていました。」このようにして、劉鳳鳴は1977年の大学受験に参加し、北京大学の法律学部に合格し、文革後初の大学生となった。

劉鳳鳴の大学生活はとても順調であった。大学生活も終わりに近づいたとき、全国で正式に大学院生の募集が始まった。その受験願書の質問表に、ある項目があった。「あなたは留学を考えていますか?」「私は留学の意味をあまり理解していませんでしたが、その項目にチェックをいれました。私の成績がたまたまこの条件に符合したため、大学院に合格すると、自動的に当時の教育部が派遣する初の留学生の資格を獲得することができました。北京大学とワシントン大学の交流プログラムの一部としてワシントン大学で勉強することになったのです。」

アメリカで法律を勉強していた頃の劉鳳鳴の一番大きな夢は、母校に帰り、教鞭をとることだった。これが哲学博士号をとった彼の原動力となったのだが、人生はつねに波乱に満ち溢れたものである。

アメリカで裁判を起こす

ワシントンでの勉学期間中、劉鳳鳴は弁護士の資格をとろうとした。アメリカでは弁護士になるには以下の基本的な条件が必要とされる。まず、アメリカ弁護士会が認可したロースクールの卒業生であること。次に、弁護士資格試験にパスすること。その他にも州でさらに別の条件が必要とされることもある。弁護士会と現地の裁判所は劉鳳鳴がその条件のひとつに符合していないと通告した。資格申請者はアメリカの公民あるいはアメリカの永久居住権をもっていなければならないのである。

弁護士会と交渉ののち、相手方は劉鳳鳴にひとつの提案を行った。裁判所にこの法律を新たに審査しなおすように起訴することができる、というものである。劉鳳鳴はそれにしたがって行政訴訟を起こした。「私はここの弁護士資格試験の規定は違憲だと言いました。憲法には法律の前にはいかなる人も平等であると明記されており、この法律は憲法の公正の原則に違反すると言ったのです。裁判所は検討ののち、試験にパスしたら、アメリカで1年弁護士として働くことを許可するといいました。しかし、私はこの1年という年限は何の根拠もないものだと思い、さらに上訴しました。そこでは、最高裁判所の9人の裁判官が共同審議を行い、私が言うことに道理があるという結論となりました。弁護士の資格試験にパスしさえすれば、弁護士という職業につくための制限はなくなったのです。」このときからワシントン州のこの法律は改められた。

のちに劉鳳鳴は弁護士資格試験にパスし、ワシントン州で初めてのアメリカ人以外あるいはアメリカ永住権所持者以外の弁護士となったのである。

中国に戻る

1992年、劉鳳鳴は中国に帰国した。アメリカのガシェ法律事務所の弁護士から始まり、首席代表になり、3年後にはガシェ法律事務所の世界共同経営者となった。のちには船舶運送会社の北アジア地区の法律顧問兼北方地区の社長となった。このとき、マイクロソフト社の北京における業務が発展中で、1997年に劉鳳鳴はマイクロソフト社に入社し、大中華区の副社長にまでのぼりつめ、政府との連絡や政策・公益事業も含む中国地区の法律業務の責任者となった。

あるとき、劉鳳鳴はかつての同級生とともに昔働いていた山村を再訪した。そこは北京や上海などの大都市と違い、変化が非常に少なく、「村人はわれわれの名前をすべて覚えていました。」それは、ここ何年もの間、外からこの村にやってくる人はおらず、「われわれは彼らの一生のなかで唯一のよそ者だったのです」。その村を離れてから、「よそ者」たちの生活は、大学進学、仕事、出国などの激しい変化を経てきた。「でも、村人たちは相も変わらず変化の少ない生活を送っていました。なぜならば彼らにはその村から出る機会さえもなかったからです」。

「私は中国の改革開放がすばらしかった点は、まさにここにあると考えます。改革開放によってわれわれは外に出て、外の世界がどのようなものかを知ることができたのです。」劉鳳鳴は外国人の同僚に中国のことを聞かれたときには喜んでその質問に答えた。現在、中国ではとても好ましい現象がおきている。それは中国人が知るものがとても多くなって、それがさらによりよいことを生み出している。これは中国の改革開放がもたらしたものであり、知ることが多くなれば問題提起も増え、関与することがらも増える。そして想像力が豊かになる。改革開放後の中国を見るためには、そのきらびやかな摩天楼だけでなく、そして発展からとりのこされた地区だけでもなく、多くのささやかな側面に注目し、それらの小さなことが蓄積され変化してゆくのを観察するべきなのである。

「もし、改革開放がなければ、私には出国の機会などなく、また中国に帰国する機会もなく、ましてや外国の法律事務所の弁護士として帰国するなんて不可能だったでしょう。中国とアメリカの弁護士はまるで違う歴史的背景をもちます。もし30年前であれば、アメリカの弁護士が中国で活躍できる業務などはなかったでしょう。改革開放がなければ、マイクロソフトが中国市場に進出し、長きにわたる急速な成長を遂げることはなかったでしょうし、私自身このようにマイクロソフトのために仕事をする機会はなかったでしょう。私は中国の30年にわたる改革開放の恩恵に与ったのです。」劉鳳鳴はきっぱりと語った。

 

 

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