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紅軍は国民党軍の井岡山革命根拠地に対する数回の包囲を撃退した。その結果、さらに激しい砲火を受けた。そのため1934年10月から紅軍は世界でも有名な「長征」を開始した。全行程約1万2500キロ、一日当たり約27キロを歩いた。中国の南西部は高く切り立つ山々、大小の盆地、深い谷ばかりで、平地はほとんどない。紅軍は極めて苦しい環境の下に毛沢東の指揮によって「長征」を完成させた。
1935年1月15日から17日まで、中国共産党中央政治局は貴州の遵義で会議を開き、毛沢東の軍事戦略上の主張を肯定し、毛沢東の共産党と紅軍での指導地位を確認した。そののち、毛沢東の指導の下に、中国共産党は1949年に中国全体の解放を勝ち取り、中華人民共和国を成立させた。
この歴史を尊重するために、遵義会議記念館はそのときの姿を保存しており、館の前後にある街路と横町には石板が敷かれ、周辺には20世紀初期の貴州省北部の民家を再現し、記念館と渾然一体とさせている。長征と関係の深い四渡赤水記念館、婁山関景勝区なども修築・保護されている。
遵義は中国でも最も著名な白酒の生産地である。紅軍は長征当時、遵義附近の茅台鎮に着いたとき、茅台の美酒を飲んだ。高度数の蒸留酒は別な用途にも使うことができた。「長征途中、茅台鎮を通ったとき、地元の人々は酒を捧げて歓迎してくれた。戦士たちはその酒で足や傷口をきれいに消毒したり、痛み止めや下痢止めに使ったりした。そのため、紅軍の長征の勝利に茅台酒は大きな功労を立てたといえる」と、紅軍総司令官である朱徳は回顧している。中華人民共和国の成立後、茅台酒は中国政府が指定した政府主催の宴会の専門酒となっている。1972年、アメリカのニクソン大統領が訪中したとき、茅台酒の芳醇を称賛した。
長征の終点は陝西北部である。ここは黄土に覆われた乾燥少雨気候の高原で、土地の砂漠化がひどい。紅軍はここに到着してから、新しい奇跡を作り出した。
エドガー・スノーは最も早く陝西に興味を示した欧米人の一人である。多年にわたって国民党軍に包囲・封鎖されていたので、外界は中国共産党と紅軍に対しての理解にかけていた。エドガー・スノーの言うとおり、「事実上、世界には、中国共産党の情況より大きな謎、さらに混乱した伝説はなかった」。記者の嗅覚をもって彼は陝西北部に行き、自ら共産党中国の真相を明らかにすることを決めた。
そして、世界でも有名な『中国の赤い星』が誕生した。共産党は陝西北部に大きな変化をもたらした。紅軍は延安に進駐し、陝西甘粛寧夏辺区の行政首府としたが、そのときの延安は、1万人しかいない貧しい暗い町だった。共産党が来ると、延安は活気づき、調和に満ちた、誰でも行きたくなるところとなっていた。その革命気風と情熱は人々を感動させた。生活環境は苦しいものの、人々の精神は充実していた。物質は欠乏していたので、共産党の指導者は自ら先頭に立って耕地を開墾したり、布を織ったりして、生存問題を解決していたと、スノーは記している。スノーは陝西北部で多くの共産党指導者が劣悪な生活環境のため、歯の病気や胃病にかかっていたのを見た。
事実上、中国共産党にとって、陝西北部で行われた任務がもっと困難だっだ。一方で国民党軍と戦い、もう一方で中国を侵略する日本軍と戦う。それと同時に、農民を立ち上がらせ、中国共産党の根拠地を固める。毛沢東をはじめとする中国共産党指導部は苦しい環境の下で、困難を一つずつ解決した。1945年、日本は降参し、1949年、蒋介石は内戦に敗北し、台湾に渡った。30年におよぶ苦闘を経て、中国共産党は革命の最後の勝利を勝ち取った。
1937年から1947年にかけて、延安は中国共産党中央の所在地であり、かつ陝西甘粛寧夏辺区の首府であり、中国革命の指導センター、最高司令部であり、中国革命の聖地でもあった。延安には多くの革命ゆかりの地が保存されていて、たとえば鳳凰山の宝塔、楊家嶺の洞穴式住居、棗園、王家坪などがある。これらを見に、毎年、たくさんの観光客が延安を訪れる。