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人民大会堂は中国現代建築史上の傑作である。これほど大規模な建築物であるのにもかかわらず、計画・設計から完成までわずか10カ月しかかからず、その建設速度はびっくりするほど速かった。中国の経済力と科学技術レベルが立ち遅れていた1950年代に、このような人民大会堂を短期間で建設したことは奇跡だともいえよう。この大規模な建築物は、いかにしてこのような短い時間で完成したのだろうか。




7回も見直しがなされた設計図
1958年8月、中央政府は天安門広場の西側に人民大会堂を建設することを決定した。国慶節(建国記念日)の後に着工するための準備作業があわただしく始まった。9月5日、北京市は準備のための組織を立ち上げ、建設準備作業を開始した。
人民大会堂の建設が決定したのち、北京市政府(当時の北京市人民委員会)と中国建築学会はすぐに、人民大会堂の設計のために全国の建築士を北京に招く旨の電報を全国各地に送った。当時の江蘇省副省長は、自ら南京工学院建築学部の楊廷宝主任と南京市建築設計院の江一麟副院長のところに出向き、全省を代表して上京してくれるように頼んだ。しかも、彼らの飛行機の切符を買って、空港まで見送った。たった数日間で、元々20人ほどを招くつもりだった設計チームに、30人あまりがやってきた。そのうちの多くが、国内外の建築界に名高い専門家や学者であった。仕事の効率は驚くほど高く、専門家は北京に着いた夜に仕事を始め、しかも5日後の9月15日に、最初の設計案が完成した。9月20日、二番目の設計案を提出した。9月26日、政府の高官は三番目の設計案を審査したが、やはり不十分と言い、さらなる修正を要求した。1カ月足らずうちに、専門家たちは、計84の平面設計案、189の立体設計案を提出した。
設計案を検討する中で論議されたのは、以下のような数点の問題についてである。一つは人民大会堂の位置についてで、天安門と正陽門の間か、それとも天安門広場の西側かという問題である。もう一つは、人民大会堂の高さは天安門のそれを超えるべきかという問題。三番目は、人民大会堂と革命歴史博物館の間の距離は350メートルか、それとも400、500メートルかということである。そのほか、人民大会堂に中国風の大きな屋根をのせるか、記念碑の左右に二つの建築物をつけるか4つの建築物をつけるかの問題などもあった。
ちょうどその時、一群の若手建築家が設計チームに加わった。若者の考え方は自由で、間もなく人々の耳目を一新させる設計案を作り出した。北京市企画局は、新しい設計案を新たに提出した。その設計案では、人民大会堂の平面図は「凸」の字形をしており、北から南へ大宴会ホール、大会ホール、常務委員会オフィスが並んでいて、この3つの部分は中央ホールでつながっており、宴会ホールは2階に、大会ホールは真ん中よりやや西寄りに置かれた。この設計案は皆の支持を得た。
数回の見直しを経て、大会堂の設計案はしだいにその輪郭を現した。最後の設計案は、従来の制限を大胆に突破し、建築面積は元の倍となった。この設計案は人民大会堂の規模を決めたばかりでなく、天安門広場の設計案も完成させた。広場の東西両側には、それぞれ革命歴史博物館と人民大会堂を建て、この二つの建築もコロネード様式を採用し、鮮明なコントラストを生み出している。それは、後に建てられた毛沢東記念堂と共に、雄大な天安門広場を形成することとなった。1997年4月に行われた中日建築家の北京交流会で、日本の名高い建築家磯崎新は、「天安門広場はほんとうに偉大です。高層ビルが林立する日本には、いまだこんなに雄大な気迫をもつ広場はありません」と心から賛美した。