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記者:中国のファッション業界は、どうやってゼロから今の国際ファッション業界の一角を占めるようにまでなったのでしょうか、ご紹介いただけませんか?
李欣:1980年代に、中国のファッションデザインはまだ駆け出しの仕立屋レベルにありました。二年に一度の「金鋏賞」ファッションデザイン・コンクールは、中国のファッションデザイン・コンクールの先鞭をつけました。コンクールは、作品の実用性と見た目だけを要求していました。私はかつて中国服装研究センターに勤務し、コンクールの選考委員を担当していましたが、コンクールの現場で、多くのクリエイティブな作品が見落とされてしまい、実に残念に思っていました。クリエイティブな作品こそ固定観念を突破することができると思っていたからです。
1993年、日本のブラザー工業が、フッションデザイン・コンクールを共催しようと中国服装センターにやって来ました。これはすばらしいことだと思い私はとても興奮しました。数年間続いている「金鋏賞」とは、作り手の創作意欲を激励することで差別化し、それをコンクールの主旨におくことを私は提唱しました。しかも、開放されたばかりの中国で、外国のデザイナーを招いて中国人デザイナーと共に争わせるという、初めての国際的なファッションデザイン・コンクールを行おうとしました。こうすることで、応募者たちは普通の木綿生地に限定されることなく、自由に想像の翼を羽ばたかせることができます。
こうして「ブラザー杯」コンクールが行われ、作品にバイオリンやマホガニーの家具で飾られた服などが現れ、観衆たちを「こんなものでもファッションですか」とびっくり仰天させたのです。
デザイナーの創造力を鼓舞するために、かつてコンクールで用いられたデザインが2度目に使われた場合、それは失格にしようと私は提唱しました。この意見は、コンクールに採用されました。模倣は必ず失敗につながります。新しいものを創り出すことこそ、ファッションの命だと思っています。
記者:「ブラザー杯」は中国ファッションショーの先鞭となりましたね。
李欣:はい、そうです。呉海燕、馬可、鄒遊、武学凱、武学偉らは、みな「バラザー杯」コンクールで賞を獲得した優れたデザイナーです。彼らのデザイン能力は、間もなく国内市場で実証され、消費者に認められました。彼らは中国のファッション業界に限りない創造力をもたらしながら、ファッションブランドの多様化を推し進め、中国ファッションデザインの発展を加速させました。
後に、私は上海中華杯ファッションデザイン・コンクールの選考委員として、作品の実用性と潜在的ビジネス価値を判定し、参加者のデザイン能力と市場とを結びつけることに努めました。私は「ブラザー杯」コンクールの基礎の上にファッションデザインが着実に市場化できるよう、しかも卒業を控えた若い学生ができる限り速く企業の要求に応えられるように指導することに力を入れました。このあと、子供服、カジュアルウェア、アンダーウェア・水着、ウェディングウェアなど、各種の専門ファッションデザイン・コンクールが続々と市場で脚光を浴びるようになりました。
記者:中国のファッションモデルはいかにして国際的なステージの上にあがったのですか?
李欣:1994年、中国は初の「モデル」抜擢コンクールを行い、国際ファッション業界にセンセーションを巻き起こしました。1995年に上海で行われた「中華杯」国際コンクールは、初めて外国人のモデルを招き、中国人モデルが国際ファッション業界に進出するステップとなり、一部の中国人モデルは国際的コンクールで賞を獲得しました。中国でまず頭角を現したモデルには、陳娟紅、郭樺、葉継紅、瞿穎らがいます。
記者:中国ファッションは国際ファッション業界にどのような影響を与えましたか?
李欣:今世紀の初めに、ヨーロッパで「東方ブーム」が起こりました。多くの中国人が続々と国際ブランド品の広告に登場し、例えば呂燕はDIORのPRガールになりました。多くの国際ブランド品の広告には、「チャイナレッド」などの中華色に染められました。
2003年から、葉文波らの中国人デザイナーは、国を出て外国に進出しました。彼らは欧米諸国で、ファッションショーを行いました。2008年7月、馬可の作品は、パリの秋・冬高級ファッションショーのステージに登場しました。彼女のシリーズ作品「無用」は、AFP通信社に「彼女の『反流行』のファッション宣言を十分に表した作品」だと評価されました。