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「すばらしい! 中国が独自で生産したレース用オートバイが輸入モノを打ち負かしました!」レース場のスピーカーからアナウンサーの絶叫が聞こえてきた。




含谷鎮は中国西部にある工業都市、重慶市郊外にある農村で、田畑の間に大型のオートバイのオフロードレース場がある。ここまで、市区から車で高速道路経由で30分ぐらいかかるが、交通の不便さはレースの熾烈さにまるで影響がなかった。2009年9月17日、第三回「鑫源カップ」全国オートバイオフロードレースが含谷鎮で開幕した。エンジンの轟音とともに、選手たちはスタートラインから走り出し、中国オートバイレースの一年でも重要なレースが始まった。
オートバイレースは特有の野性と自由さで、多くの参加者を引きつけている。
早くも1950年代に、中国ではオートバイスポーツが始められた。その当時、中国は旧ソ連に学び、オートバイスポーツは軍事スポーツ種目として中国に取り入れられた。1952年、中国は第一回全軍運動会を開催し、各大軍区から代表チームが組織され、5人の選手が1チームとなった。レース用のオートバイは全部旧ソ連産のM-7C(750)三輪オートバイで、中国初の大規模なオートバイレースとなった。1955年、中国国家オートバイ集中訓練チームはルーマニアで開かれた国際友誼オートバイレースに参加し、中国チームは二輪オートバイ男子350ml団体の第三位という成績をおさめた。1979年、中国オートバイスポーツ協会は正式に国際モーターサイクリズム連盟のメンバーとなった。
1984年、中国の選手はアメリカ・ロサンゼルスオリンピックで金メダルを獲得した。中国はそれにしたがってスポーツ種目に対して調整をおこない、オートバイレースはその後の第七回全国スポーツ大会でショー種目とされ、もはやレース種目とはされなくなった。各地のオートバイレースチームは解散し、中国のオートバイスポーツは低迷状態に落ちいった。
中国のオートバイ産業の発展が中国のオートバイスポーツを救い出した。
1978年、中国は改革開放を実施し、経済は猛スピードで発展し始めた。国土の広い発展途上国として、交通機関の立ち遅れは経済の発展を制約した。そのため、1980、90年代には、オートバイは中国の都市と農村の重要な交通手段となった。1993年、中国のオートバイの生産台数は335万台に達し、初めて日本の302万台を超え、世界一位となった。1997年、生産台数は1000万台を突破し、当時の世界のオートバイの総生産台数の43%を占めるようになった。
企業はオートバイスポーツの最も強力な推進力となった。オートバイスポーツはオートバイの性能を試すことができる。オートバイ・エンジンの動力性能、熱エネルギー利用効率の向上、ますます多くなる電子化・軽量化の応用テストなどがみなレース用オートバイによって検証できる。そのため、企業の援助によって、中国各地で多くのオートバイスポーツクラブが成立し、国際的なレースに参加し、よい成績をおさめた。