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新しい行政長官崔世安
1957年1月にマカオで生まれた崔世安は、アメリカのオクラホマ州大学で医務管理学マスターと公共衛生ドクターを取得した。崔家はマカオの名門で、マカオの建設業に重要な地位を占めている。崔世安はアメリカの大学でドクター号を取得したのち、マカオに戻ってきた。1992年、彼は第5回立法会選挙に出馬し、高得票で当選した。同時に、彼は積極的に社会団体の活動に参加し、豊かな経歴と人脈を培った。マカオの祖国復帰を目近かに控えた1999年に、崔世安は行政長官何厚華の指名で、マカオ特別行政区社会文化局局長となった。就任期間、彼は15年間の義務教育の実施に成功した。執務能力を試されることになった鳥インフルエンザ、SARSなど衛生事件でも、彼はよい成績を収めた。
2009年5月12日、崔世安はマカオ特別行政区社会文化局局長を辞任し、次のマカオ特別行政区行政長官の選挙に出馬することを宣言した。それ以前に、行政長官はマカオ出身の人がよいとギャンブル王何鴻燊が発言したことがある。「崔家は数代にわたってマカオに住んでおり、ほかに並ぶ者がいないほど適任である」と彼は言った。7月26日、マカオ特別行政区第三代行政長官選挙委員会の投票を経て、52歳の唯一の立候補者崔世安は当選した。2009年8月、崔世安は国務院にマカオ特別行政区行政長官に任命され、任期は2009年12月20日より2014年12月19日までである。
ギャンブル王、何鴻燊
マカオでは、ギャンブル王といえば何鴻燊(スタンレー・ホー)のことである。何鴻燊が支配するその資産は5000億香港ドルにのぼり、個人財産も200億香港ドルをもち、香港・マカオの金持ちのトップテンに数えられ、マカオでも指折りの金持ちである。
何鴻燊は香港の名門貴族の出身だが、彼の成功と名望はその名声によるものではない。少年時代に父親の会社が倒産し、家は貧しくなった。彼は人情の冷たさをつぶさに嘗め尽くした。それは彼の学習意欲を刺激したばかりでなく、後の教育事業に対する熱意にもつながった。このため、彼は「財産と友人は常ならず、ただ学問のみが終生生きる」とよく後輩を諭している。第二次世界大戦期間中、日本軍が香港を占領したとき、何鴻燊は戦火からマカオに逃れ、そのときはわずか10元しか持っていなかった。努力によってやがて何鴻燊は灯油と建築の会社をつくり、1950年代には香港にも名を轟かせる大金持ちとなった。1961年、何鴻燊は人と協力してマカオのギャンブル特許を落札し、マカオ観光娯楽有限会社をつくり、リスボアを建てた。1990年代にはマカオパレスを建てた。彼の傘下の賭博場は、政府に年間40億香港ドルの税金を払い、それはマカオ財政総収入の半分以上を占めており、3割のマカオ人は直接あるいは間接的に彼の会社に雇われ、利益を受けているという。
何鴻燊は独特のマカオ文化を保護、高揚することにこだわっている。それは、これこそがマカオの継続可能な発展を支えることになると信じているからである。そのため、彼は年に一度のマカオグランプリレース、マカオ芸術祭、マカオ音楽祭など各項の観光、文化、スポーツ活動を積極的に援助している。2007年に、何鴻燊はマカオに対する貢献を評価され特別区政府に「大蓮花栄誉勲章」を授与された。
謝碩文:農民から億万長者に
1981年、27歳の謝碩文は中国内地からマカオに移住してきた。1984年、謝碩文はマカオ名嘉集団有限会社を設立し、そのビジネス人生を始めた。最初、彼はアパレル、蝋燭工芸、家電、貿易業などに従事し、南アメリカのハイチでアパレル工場を経営し、製品をアメリカやヨーロッパに輸出し、人生で初めての資本金を儲けた。1990年代、会社の投資・経営は不動産、映画制作、娯楽、ホテル、宝石業まで広がった。現在、マカオ名嘉集団は、マカオ地区における知名度の高い企業の一つで、傘下の従業員は8000人を超えた。
謝碩文の事業発展は、中国内地の経済発展と密接に関係している。1990年代、内地の不動産業は始まったばかりで、彼はビジネスのチャンスをとらえ、マカオや広東地区で不動産業に投資し始めた。2000年以降、名嘉集団は山東及び全国各地でビジネス用不動産及び不動産業に投資し、しだい内地にも影響力を持つ大手不動産企業に成長した。
謝碩文は超人的な精力を持ち、毎朝6時30分に起き、30分間運動をしてからすぐ仕事を始める。彼からは強い磁力のようなやる気が発せられているのを感じると、ある親友は言う。たった10数年間で、謝碩文は一介の農民から、億万長者にまで変身した。このすべては、マカオの祖国復帰がもたらした得難いチャンスによるところが大きいと彼は語っている。