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年10月10日、16台の車からなる広州競技大会「アジアの道」チームはウルムチに到着し、陸上シルクロードの再訪イベントを成功裏に終わらせ9月4日、「アジアの道」チームは広州から出発し、新疆のホルコスから国境を出て、モンゴル、カザフスタン、ギルギスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、トルクメニスタンを訪問2000キロメートル、21都市・地区を経由した。これ以前に行われた海上シルクロードの再訪イベントとも相まって、彼らが訪れたアジア国家で「中国ブーム」と「アジアブーム」を巻き起こし、より多2200年以上の歴史を持つ広州を知ってもらうことになった。
「広州は2200年あまりの歴史を持っていますが、数千年の発展の中で、北は越秀山、東は越秀路、西は人民路、南は大南路までという町の中心の位置は終始、変わりませんでした。現在この面積7434平方メートルの南方の大都市は、この中心から生まれたのです」と、広東省立中山図書館の倪俊明副館長は説明する。
広州っ子の珠江に対する思い入れは言うまでもない。古代の珠江の幅は今よりかなり広かった。今でも、広州っ子は川を渡ることを「海を渡る」と表現する。今の恵福西路の五仙観は、晋代の珠江北岸の渡し場で、今の珠江北岸から1500メートル離れている。伝説では、色とりどりの服を着た五人の仙人が5匹のヒツジに乗って広州にやってきて籾を贈り、この地に永遠に飢饉がないように祈ったと伝えられている。そのため、広州には「ヒツジの町」という別称がある。明代に、珠江の水路が南に移ったため、以前の城壁を南に拡張して、広州の下町が形成された。清代にいたって、珠江の水路がさらに南に移ったため、城壁もさらに南に拡張され、現代の広州の形ができあがった
「解放初期の広州の市区は、東は大東門、西は西関、南は沿江路、北は越秀山までのわずか54平方メートルで、28の区域に分けられていました。長寿、小北、沙河、海幢などの昔からの地名は今でも大通りの名前となって残っています」。広州が解放された日、一人の若くてスマートな解放軍の将校が、白馬にまたがって意気揚々と広州市を一周したことは、多くの広州っ子の記憶に新しい。その「白馬の将軍」はインタビューに応じたとき、当時白馬にまたがり広州を一周するのに要した時間は1、2時間だったと語った。今日では広州の市区はすでに10倍にも拡大しているので、一周するのにはかなり時間がかかるだろう。