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「広州アジア競技大会の開幕式には必ず獅子舞があります」。記者のインタビューに応じて、嶺南美術出版社社長、広東省の嶺南文化研究学者徐南鉄はこう答えた。「広州のアジア競技大会の開幕式では、地域文化の特徴、嶺南文化の要素を十分に表現しようと考えています」。国家歌舞団チーフ芸術監督、広州アジア競技大会開幕式のチーフ監督陳維亜もかつてこのように語って
獅子舞、竜舟競漕、粤劇(広東地方劇)、広州刺繍など嶺南文化の代表的モチーフは、長い歴史をもつ広州の町に染み込んでおり、2010年アジア競技大会の絢爛たる舞台を待っているのである。
5年前のある日、ためらいつつも、徐南鉄は「古都広州は、2200年余りの歴史のなかで濃厚な文化を育み、繁栄する街の表面には古い中華文明を染み込ませている」と書き下ろした。
この言葉は後に2004年に広州がアジア競技大会を招致したときに使われたドキュメンタリーフィルムの冒頭のナレーションとなった
当初、広州市はドキュメンタリーフィルムを作るつもりはなく、PR映画だけあれば充分だと考えていた。後に、北京の専門家が、アジアオリンピック理事会の広州視察の際には、彼らにドキュメンタリーフィルムを見せなければならないと注意したため、広州市ははじめて撮影に着手した。徐南鉄がナレーションを書く時間はわ5日間だった。この重役を担うことになったいきさつについて、徐南鉄は「私が広州っ子で、古い広州や嶺南文化に詳しいからでしょう」と語った。
中原は遠く 世界は近い
歴史上、流刑地として登場する嶺南地区(越城嶺、都厖嶺、萌渚嶺、騎田嶺、大庾嶺の五嶺以南の広東・広西をさす)は、中原から遥かに離れているため、その文化は「非主流」文化と見なされてきた。しかし、中心からは遠いいものの、世界には遠くない広州は、早くから目を世界に向けていた。登州、揚州、泉州などかつて栄えていた港がつぎつぎと衰退してゆくなか、中国史上唯一、対外貿易が途絶えなかった港町広州は、とうとう歴史の表舞台に踊り出た。嶺南商人が乗る赤い船が南洋を行き、太平洋を行き、世界中を航行したのである。今日でも、世界各地のチャイナタウンでは、広東語が共通語となっている。1920年代にかつて広州に住んだことがある外国人たちは、中国語を話せるというとそれは広東語だった。こうして、外国に知られる中国文化は主に嶺南文化であると学者は認めている。
徐南鉄によれば、粤劇、広州刺繍、広州の磁器、嶺南画派、嶺南建築、嶺南盆栽、嶺南民俗などはすべて嶺南文化の代表である。
「地方の水と土地は、地方の人間や地方文化を養います」と中山大学中国文学部の葉春生教授は語る。「嶺南文化の特徴はまずバラエティーに富み、古くて若いことです。数多くの古いものを保存しながら、外界から多くの新鮮な文化を吸収しています。広東の人はハンバーグや寿司を食べたりカクテルを飲んだりしながら獅子舞をして、ディスコで踊りカラオケで歌いながらも神様を祀り、株を売買することができます。その次は、活発で色鮮やかなことです。中国画を例にとると、北方の画風と異なり、嶺南画は軽快で色彩に富みます。これは、嶺南の気候に密接な関係があります。広州の四季ははっきりせず、いわゆる華やかな春と寂しい秋の感覚はほぼなく、一年中花が咲き乱れていま
「広州の文化精神の核心となるものは着実さと客観性です。広州っ子は争うことが好きです。つまり、広州っ子は向上心があり、多くを語らずただやるべきことを黙々とこなします」。「嶺南文化の特徴は着実さで、すばらしいことを見つけるとすぐ取り入れることです」。徐南鉄によると、嶺南文化は主に3つの段階を経て変化してきたそうである。まず、嶺南の伝統文化というと百越文化で、粤劇・広州磁器などはその典型的な代表である。その次は近代の洪秀全が率いた太平天国の蜂起、康有為・梁啓超らの戊戌変法から、孫文が指導した辛亥革命までの時期で、嶺南文化は中国近代政治革命における重要な力となった。嶺南文化は変化に強く西洋に積極的に学んだ。百年前、中国最初の留学生が、国を豊かにするという夢を抱いて海を渡った。その十代の子どもの三分の二が広東人だった。早くからの対外開放は、嶺南文化に新しい観念を注ぎいれた。改革開放以来、広州は中国の対外開放の最前線に立ち、つねに先頭を切っていた。「当時の新聞には、空虚な言葉が多く、イデオロギー上の報道が紙面を埋め尽くしていましたが、広州人は理屈は置いておいて、何かよいと思えばすぐそれを行います。こうして、経済を発展させてきたのです」