| 中国画報の購読 |



|
|
|
|
|
2010年3月17日の夜、北京の初春はまだ肌寒さが残っているが、国際貿易センター付近にあるSOHO尚都の一角は熱くもりあがっていた。中国の「西部の歌王」王洛賓を記念するライブが「微薄之塩」という民謡音楽バーで行われたのだ。「微薄之塩」民謡音楽バーのオーナーである喬小刀が今回のイベントの司会を担当した。想像できないかもしれないが、今日、舞台で自由自在に司会をしているこの男は、12年前初めて北京に来たとき、アーク溶接をしていた。中関村にある北京の有名なデジタル製品の集散センターである海竜ビルの看板の文字は喬小刀によって溶接されたものである。さらにそれ以前は、彼は東北の故郷で父とくず拾いをして生計を立ててい
今や、喬小刀はバンドのメンバー、デザイナー、展示企画者、詩人、雑誌編集長、文化メデCEOなどの身分を兼ね、北京に300平方メートルの家と車を持っている。北京で生活した12年間に、彼には多くの不思議なことが起きた。彼の奮闘過程はまるで「アメリカンドリーム」のようでもある。
北京へ上京し、苦しみを堪え忍ぶ
山東出身の喬小刀は1歳の頃、父母につれられて黒竜江省に行った。家は貧しく、小さいころの彼は父と一緒にくず拾いをしていた。多くの人から見れば、それは楽しそうではない子供時代だが、喬小刀はその経歴が彼の芸術家としての固い基礎を作ったと考えている。
少年時代の喬小刀は色が黑くやせていた。中学2年で学校をやめた。16、7歳頃の彼は仲間もあまりおらず、自分の部屋に閉じこもって、兵馬俑、水車の模型など変わったものをデザインしていた1998年3月、20歳の喬小刀は、どうせ苦しい生活ならば、中国の一番いいところへ行こうと考え、恐いもの知らずに黒竜江から北京に上京した。
北京に着いたばかりの喬小刀はアーク溶接をすることからはじめ、毎月の収入はわずか300元だった。このわずかな給料にもかかわらず、彼は毎日14、5時間、ひいては20時間も働き、働き者であるという長所を見せ付けた。しかし、多くの人はこの無口な若者にさらに大きな長所、「頭の良さ」を発見した。アーク溶接の過程で、彼はコンピューターを使う術を覚え、さらに平面デザインを覚え、収入は倍増していっ2000年、彼はオフィスビルのホワイトカラーとなり、ウェッブサイトデザインの仕事をし、給料はまた倍にな3000元にも達した。このような仕事はそんなに素晴らしいとは言えないかもしれないが、喬小刀にとってはほとんど奇跡だった。