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開平の碉楼(洋館風の防御に適した背の高い建物)群には不思議な由来がある。1922年12月のある晩、北風がピューピューと吹き、大雨がざあざあとふる中100名以上もの匪賊が突然広東の開平中学を襲撃し、校長をはじめとする20名あまりの金持ちの子弟を襲い、身代金を得るためにつれて帰ろうとした。匪賊が赤坎鎮鷹村に至ったとき、夜警に発見され、警報機が鳴らされた。サーチライトに照らし出され、匪賊たちは逃げ場を失い、村民たちは力をあわせて匪賊をやっつけて、校長と学生たちを救い出した。海外の華僑はこのニュースを聞くと、開平の碉楼は安全であると考え、自分の衣食を削ってまでも故郷に碉楼をたてる費用を捻出した。このため、開平にはもっとも多いときでは3000棟もの碉楼が建ち並んだ。
歴史学者の研究によれば、開平に碉楼が建てられ始めたのは、洪水による被害防止のためだという。開平は低地にあり、しばしば洪水に見舞われていた。村民たちが協力して高い碉楼を建てたおもな理由のひとつが洪水被害防止である。開平に現存するもっとも古い迎竜楼は、かつてノアの箱舟のような役割をもっていて、二度村民たちの命を救った。清の光緒九年(1884年)、開平は大水害に見舞われ、多くの村の家が水没したが、三門里村は迎竜楼が村人を守って全員無事であったという。1908年の洪水でもふたたび村民は碉楼に避難し、救われた。
ただし碉楼が建てられたおもな理由は匪賊から身を守るためである。開平の建物はその役割によって3種類に分けることができる。ひとつは更楼で、パトロールや村外のようすを知るための建物で、さらに匪賊から身を守るためのトーチカの役割を果たす。衆楼は、村民が共同で建築した住居で、避難所でもあり、部屋の多くは村民が購入する。居楼は村民が各自自費で建てた家族の住まいで、食糧庫と快適な生活空間をもつ。この3種類の建物はすべて匪賊侵入防止の役割をもつ。開平の碉楼は材料・様式のうえでそれぞれに異なるが、すべて窓が小さく、門や窓は鉄柵で覆われ、壁が厚く、壁に銃を打つための穴があいている。一般的に屋上に見張り台があり、各種機械や発電機、警報機、サーチライトや石・ドラなどの防衛機材が備え付けられている。
かつて開平は、交通が不便なやせた土地であり、さらに各行政区の境目にあったため、中央政権の統治力がいきとどかない場所であった。貧しいここの人々は異郷や海外に出稼ぎにでるか、匪賊になるか、二つに一つの選択肢しかなかった。19世紀以後、アメリカ・カナダ・オーストラリアなどで相次いで金鉱開発や鉄道建設が行われ、多くの貧農たちがその苦しい労働にたずさわるために海を渡った。時がたつにつれ、一部の華人たちは海外で成功し、そのお金を開平に持ち帰って、家をたて、妻をめとった。これらの故郷に錦をかざった人々はまた、匪賊のよい標的となり、しばしばその被害にあった。故郷にもどった華僑たちは家で匪賊に襲われるのをおそれ、親戚の家にいったり、しばしば宿泊地を換えたりなどの苦労をしいられた。1912年から1930年の間に71件の盗難事件がおき、100人余りの生命が失われ、県都が3度襲われ、県長でさえもが匪賊に捕らわれた。このため、自然のなりゆきとして、碉楼は人の命を守るためのよりどころとなったのである。