| 中国画報の購読 |



2008年4月20日、アンヌはまた黄山にやってきた。このときはわれわれは婺源を取材した。私は古いサンタナを運転してくねくねとした山道を駆けのぼっていたが、アンヌはずっとだまったままだった。私はアンヌの徽州への愛は私に劣るものではないことを知っていた。婺源清華鎮洪村につくと、アンヌはすぐさま一人の村の女性と仲良くなった。別れるまぎわに彼女はこの女性に「わたしはとてもあなたの家が好き」と言った。夜にわたしの事務所に戻ると、アンヌは息子が北京からかけてきた電話を受けた。その日はアンヌの息子の誕生日で、彼は体の具合があまりよくないそうで、彼女が受話器をおいたとき、アンヌの、母親として息子の傍にいれないことにたいする申し訳ない気持ちを私は感じ取り、この女性作家の別の一面を見た思いがした。彼女はノートパソコンをひらいて彼女の息子の写真を見せてくれた。とてもかわいいフランス人の男の子で、私はとても感動した。3年間でアンヌは徽州の30あまりの村に行き、数十万字にものぼる記録を書きとめた。3年後のこんにち、アンヌはすでに流暢な中国語で私と話をするようになり、取材で訪れた猪欄バーのマダムを取材したのちには、彼女らはとてもよい友人同士となり2009年7月にはアンヌはフランスの家族らを徽州に呼び寄せた。わたしは彼らに会うために猪欄バーに駆けつけ、びっくりしたことに、彼らはアンヌとおなじ情熱で徽州に夢中になっていた。
写真を選ぶときには、中国と西洋の文化の違いがときに現れた。わたしはたくさんの美しい徽州の風景の写真を撮っていたが、アンヌがこれらを使うときにはとても用心深かった。彼女はいつも「私はフランスの友人にほんとうの徽州を見せたい、ほんとうの徽州はそのままでとても美しいのだから」と言っていた。しばらくの間、私は中国と西洋の表現という文化形式について考えさせられた。アンヌはいつも芸術的手法で昇華された徽州ではなく、「再現」という手法を用いて表現された徽州を要求した。使った写真には手当たりしだいわたしが撮りためておいた生活に関する写真が多かった。本が出版された後、フランスの出版業界の友人たちに高く評価され、私の撮った写真がとくに評判がよかったとアンヌは一度ならず私に言ってくれた。
2009年12月5日、『徽州、教養ある商人たちの国(中国名:石与墨書就的中国儒商)』の発売記念式と『徽州の姿』写真展が北京で行われた。アンヌはその式で中国語でスピーチを行った。「わたしは徽州を愛し、徽州の建築を愛し、徽州の農民を愛します。そして……」。彼女の発音はすこしわれわれのものとは違ったけれども、彼女の情熱はみなにたちまち伝染した。
徽州之友倶楽部と中国遺産基金会の援助により、この本のフランスでの発売記念および「徽州の姿」写真展が、2010年1月20日にパリの「中国の家」で行われ、さらに多くのフランス人と各国の人々が中国の徽州とその文化について知るようになった。人々は違った言葉をもち、政治体制も異なり、生活経歴もまったく異なるけれども、それぞれの文化を鑑賞し、交流することは可能で、このような交流で理解と包容を得ることができるということを私ははっきりと理解した。このようであれば、世界はさらに素晴らしいものとなるだろう。