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600年前、鋳物師が集団で甘粛に移住してきた。彼らは、蘭州の黄河沿岸で、6年間を費やして将軍柱といわれる4本の鉄柱を鋳造した。600年後、唯一残された将軍柱は、すでにその全身に錆を浮かべている。ここにはまだ当時その柱を鋳った鋳物師の子孫たちが住んでいると聞いて、われわれは取材に出かけた。
永靖県の県都は、蘭州からそれほど遠くなく、車で一時間足らずで到着した。連れは地元出身の友人で、鋳物師の子孫たちは永靖県の古城村に住んでいると教えてくれた。彼は「永靖県古城村の王家は必ず訪れなければなりません。600年にわたって続いてきた鋳物師です」といった。
永靖古城にある王家は名声が高く、地元では「半個川の鋳物、山城堡の炉」といわれて賞賛されてきた。半個川の鋳物とは、古城の王家が代々踏襲してきた、優れた鋳造の技法と鋳型を指すものである。畑のあぜ道を辿って、村に入った。今まで見てきた村とは違っていて、道路は清潔で、村は静かである。私はいくらか驚いた。ここは永靖県の新農村建設のモデル村で、ここ数年、村の建設工事に力を入れていると、地元の友人は教えてくれた。
巨大な鉄の鐘、高さ数メートルの香炉、大きい鼎、そして色々な器物が、王家へ行く道を塞いでいた。しかし、中庭に入ると、われわれは少し失望を感じた。広い庭は、灰色の砂で作った鋳型で埋め尽くされており、どれも灰色の塊で、門前に置かれたものとはまったく違ったからである。この鋳物師の主人は一見して敏腕とわかる40代の男で、彼こそが600年前、黄河の岸辺に鉄柱を鋳造した王家の子孫で、名前を王元才という。
王元才さんは、自分の家系について紹介してくれた。「われわれ王家の家系図によると、祖先は明初に山西から徴発されてきた鋳物師の一人でした」。
14世紀後半、西部征伐にやってきた将軍馮勝は、河西にいるモンゴル軍の残余勢力を追撃するために、黄河に浮き橋を建設しようとした。浮き橋を造るためには、鉄のロープとロープをとめる基礎が要となる。ロープは入手しやすいが、基礎は浮き橋の工事の成功に直接関係する大切な部品となる。昔の技術はさほど高くなかったので、基礎にはほとんど鉄の塊などの体積が大きいものを使い、水の衝撃に耐えさせていた。明代の徐蘭が書いた『浮橋記』には、鎮遠の浮き橋は227丈の二本の鉄のロープを24艘の木製の船に繋いで橋とし、南北の両岸にそれぞれ二本の鉄柱を立てて橋ゲタとし、鉄柱は将軍柱と呼ばれたと記されている。
明代の初めに、中国で製鉄業がもっとも発達していたところは山西省であった。山西省の鉄鉱資源は豊かで、製鉄の歴史も長い。早くも1世紀ごろには、すでに年間100万キロあまりの製鉄が可能であったという。明代にいたって、山西の製鉄業はさらに発達し、民間の鋳造能力は極めて高まっていた。1369年、朝廷は山西の平陽府白土坡から冶金の職人を募集して蘭州に派遣し、浮き橋の部品の鋳造に携わらせた。
「われわれ王家の祖先の王宣・王訓兄弟は、その時蘭州に徴発された職人でした」と王元才は言った。王宣・王訓兄弟とほかの職人たちは、洪武二年(1367)から洪武四年まで、二本の将軍柱を鋳造し、洪武九年までにとうとう別の二本の将軍柱の鋳造も完了させた。
他の職人たちは故郷に戻ったり、別の職業についたりしたが、王宣・王訓兄弟は蘭州にさらに十数年逗留し、のちに今の永靖半個川に移転したことが家系図に記されている。王家には代々、祖先が黄河で浮き橋を造った物語が伝えられている。「鉄柱の鋳造は、技術的には難しくありません。鍵となるのは、鉄の溶解の時間をコントロールし、鋳造過程で液体となった鉄を絶えず注ぐようにしなければならならないことです。そして、用いる鉄の量の目算も大切です。多くても少なくても駄目で、多ければむだとなり、少なければ廃品となります」と、王元才さんは語った。
言い伝えによると、当時、鉄柱の鋳造は黄河の北岸で行われ、そこに48の溶鉱炉を建てて、銑鉄を溶解した。初めての鋳造のとき事故が起こり、数人が死んだ。そのために鋳造工事は停止を余儀なくされた。後に、職人たちは作業の見直しや手直しを行い、ふたたび鋳造工事を始め、とうとう鉄柱の鋳造を完成したという。