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半個川に移転した王家の人々は、依然として鋳造業に携わった。当初、王宣・王訓兄弟の将軍柱鋳造の成功の褒美として、甘粛境内にある鉄器鋳造の特権が彼らに与えられたと伝えられている。それ以後数百年間、古城の王家は鋳造を生業にしてきた。新中国成立前、王家は臨夏、通渭、靖遠、会寧、隴西、臨洮、青海などに支店を設け、どこも王家の名を使ってきた。新中国成立後、隴西・臨洮に建てられた農業機械工場、蘭州機械工場などは、王家の鋳物工場を基礎に建てられたものである。今日、半個川に住む王家の末裔は1500人あまりになっており、7つの鋳造工場をもっている。
長きにわたる歳月の中で、王家の子孫たちは先祖代々伝えられてきた技を厳密に守り、名声はますます遠くまで響きわたった。そのため、600年の間に数え切れないほどのエピソードが生まれた
王宣から13代目の王建耀は、甘粛のラプンロン寺の大きい銅製の鍋を鋳造した。その鍋は千人の飲用水を提供することができ、お湯をすくう人は鍋に梯子をかけて、やっと大きな鍋の縁にまで登ったという。またある職人は、鋳型の図案を描くとき、祖先の像の前で線香を焚いて静かに座り、図案が心に思い浮かぶとようやくそれを書きとめたという。そしてある人は、牛の力強さを表現するために、牛を実際に連れてきて餌も水も与えないで数日過ごさせ、それからおもむろに水の入ったたらいを牛の近くに置いて、水を飲もうとあがく牛の必死な姿を絵に描いたという。これらの民間から生まれた、日常生活に基づくデザインは、素朴なデフォルメがほどこされ、現実から乖離したぎごちなさは微塵も感じられ
「われわれの鋳造は、醜いものを美しいものにする過程です。一つ一つの鉄の塊は、高温で溶解され精錬され、鋳型に注がれ、とうとう精緻な器物になるのです。激しい炎による精錬を経なければ、そして鋳型による束縛がなければ、いくらよい銑鉄でも器の形にならないのです」。王元才の話は、いくらか哲学めいている。
永靖県は漢族とチベット族が共に住んでいるところで、かつてシルクロードがここを通っていた。永靖か80キロ離れた臨夏には、明代、全国に設けられた6つの茶馬司の一つがあり、夥しい茶と馬の取引がここで行われていた。特に、チベットの宗教用品の需要は想像を絶するほど大きかった。さらに、昔からここは名職人を輩出する地で、永靖出身の絨毯屋、仕立屋、大工、石工などの名は遠くまで知られていた。
「水と土は地元の人々を養う」という言葉は、つまり、地理的条件が人々の生活や生産のスタイルを決めるということである。半個川に移り住んだ王家の祖先たちは、田畑を買い入れ、家を建てたばかりではなく、さらに広いチベット市場にも進出した。より大きな市場のニーズこそ、この家族600年にわたって、絶えず鋳造業に携わってきた原動力であり、半個川にすぐれた鋳物師が生まれた理由なのであろう。