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100年以上も前、ドンガン人は天山山脈を越えて中央アジアまで逃れてきた。この苦難の経歴がドンガン人の勤勉でねばり強い性格を形作ったのかもしれない。中央アジアにやってきたのち、運んできた農具で土地を開墾して、トマト・きゅうり・にんにく・ネギなどの中国から携えてきた野菜の種を植えた。彼らが植えた野菜の多くはこの土地には存在しなかったものだった。このため、ドンガン人たちは自分が育てた野菜をアルマトゥイ、ひいてはロシアの地まで売りに行った。ある統計によると、カザフスタンの半分以上の野菜はドンガン人が育てたものだという。これらの野菜は現地の人々に喜ばれ、ドンガン人たちの生活も
アルマトゥイに帰る道で、小さな自動車が村に戻ってきたのに出会った。われわれのガイドでドンガン人のイリヤスが、あれは野菜畑から帰ってきたばかりのドンガン人の農民だと教えてくれた。フーサイ氏によると、ドンガン村の3000~4000ドルほどで、各家庭に1,2台の車があるという。ここでは自動車は人に見せつけるためのものではなく、耕作や野菜売りに欠かせない必要不可欠な道具なのである。
1980年代末から、ドンガン村と中国、とくに陝西省との経済交流が年々盛んになってきた。ドンガン人の多くは中国との貿易で生計をたてるようになった。フーサイ氏も中国に視察にゆき、先進設備や技術を村に持ち帰ったという。最近何年かはドンガン人たちは中国からレンガ製造機やビスケットやペンキ作りのための機械を輸入している。何年か前、さらに温室栽培の技術を導入し、ドンガン人は四季いつでも野菜を育てることができるようになり、
取材の途中でフーサイ氏は、カザフスタン政府はドンガン人を比較的優遇してくれていると教えてくれた。カザフスタンが独立した当初、ドンガン人たちが外に運ぶ野菜を道の途中でさえぎり、好き放題にお金を徴収してい2002年、フーサイ氏はナザルバエフ大統にこの問題を訴えると、大統領はすぐに道に設けられた60の関所をとりはらい、ドンガン人の野菜運送は楽になった。のちにこの道路は「緑の通路」とよばれるようになった
中国のカザフスタンの友好の架け橋
インパン村の村長、アールチュビエ・イスカカフによると、ドンガン人たちは教育を重視しているため、現在村には4つの学3000名あまりの学生がいるという。そのなかでもふたつの学校ではカザフスタン語で授業が行われ、そのほかの2つの学校ではカザフスタン語のみならず、ロシア語、ドンガン語、英語が学習されているという。このほか、ドンガン人60~70名の学生を中国の西北大学・西安外国語大学・蘭州大学などの大学に送り込んでいる。フーサイ氏の息子もいま、上海の復旦大学で中国語を勉強しているそうだ。
さらに、伝統を守るため、そして中国との貿易や文化の往来をさらに促進するために、ドンガン人協会はカザフスタンに孔子課堂を建設する準備をすすめており、これによりドンガン人の中国語学習がより便利になること
現在、カザフスタン人協会は西安に出張所を置いていて、専門家や植物栽培の技術を学ばせるために送り込んでいる。現在では、これらの中国人の子孫である民族は、中国とカザフスタンの友好の架け橋となっているのである
参考
ドンガン人の歴
1870年代、太平天国の運動が全国を席巻しているとき、中国西北部の陝西省・甘粛省・寧夏などのイスラム教徒たちは連合して、現地の各民族に大規模な清への反乱を起こさせるなどの活動を行った。この蜂起が失敗におわると、清朝の報復をおそれ、反乱に参加した何万人もの人々が西へと逃げ出し、天山山脈を越えていった。道中数千人にものぼる人々が倒れ、中央アジアのロシア国境付近までいたったのは3000人あまりにすぎなかった。これらの人々はロマノフ王朝からドンガン人(陝西方言で東方の人という意味)とよばれるようになり、彼らはここでふるさとからもってきた麦や野菜を育てて暮らすようになった。これがドンガン人の由来で