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広州で一徳路を訪ねる
文と写真/小 林

 

 

 

北京は都で、政治・経済・文化の中心である。天津は俗に天津衛といい、都を護衛する町である。武漢は漢口・武昌・漢陽3つの町からできていて、軍隊が駐屯する地である。上海は、船が出入りする埠頭であり、広州は千年の歴史を持つ商業都市である。広州市内で、もっとも都市の性格を代表している通りというと、一徳路であろう。

「十三行」から発展

一徳路は、広州市内の中心を東西に走っており、その歴史は十三行から始まる。

清朝は広州で対外通商をさせながら、外国人商人たちが、中国商人と直接売買できないようにした明の政策を踏襲した。つまり、中国に取引にきた外国商人は、指定された代理店を通してしか取引できなかったのである。これらの取引を担った代理店が「十三行」である。

十三行は、康煕二十五年(1686年、広東税関が設けられた翌年) 5月に設立され、現在の広州文化花園から海珠南路のあたりに設けられた。十三行の最盛期は、清の乾隆年間から嘉慶年間にかけての時期であった。十三行がもっとも盛んな時には、代理店は数十店もあり、そのなかでも四大商人といわれた潘啓官、盧観恒、伍秉鑑、葉上林が設けた同文行、広利行、怡和行、義成行がもっとも有名だった。その時の十三行周辺は、船の帆柱が林立し、買い物客がひしめき、絹織物、茶、陶磁器などの品物が山のように積み重なっていたという。十三行に取引に来たのは、はるばるイギリス、フランス、オランダ、東南アジアなど数十カ国からやってきた商人たちだった。十三行も取引で莫大な富を儲け、当時の西関地区は清の対外貿易の中心地区となっ

1840年に、第一次アヘン戦争が勃発した。戦いに敗れた清朝は、イギリスと「南京条約」を締結することを余儀なくされ、広州の通商港と貿易代理という特権は廃止された。1856年、第二次アヘン戦争の中、怒りのあまり市民は外国商人が住んでいた会館を焼き払った。十三行もこの火事で廃墟と化した。火は2日も燃え続き、火で融けた白銀が珠江の北岸を流れたという。

今の広州西関には狭い通りがあり、「十三行路」と呼ばれている。広州市のほかの通りと何ら変わるところはなく、まったく目立たない。珠江の川流は数百年の間に徐々に南に移動していったため、この通りも珠江から遠ざかった。しかし、十三行の隣にあるかつて広州城の南の城壁であり、十三行の膨大な貨物倉庫の所在地だった一徳路は、しだいに栄え、広州そして世界中に名を知られる交易街となった。

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