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2003
年6月21日、ボストンでは蔭餘堂の移築完成の祝賀儀式が行われた。州長、市長、アメリカの十数にものぼる博物館の館長、そして中国・イギリス・カナダ・メキシコ・スペイン・フランス・ドイツ・日本などの国の政府官僚、アメリカ駐在大使、文化参事官らあるいは祝電を打った。その日の見学者は一万人にも達した。保護のため、蔭餘堂に入る人数が制限されたため、午後5時の閉館時間になっても、外には長い列ができたままで、人々は去ろうとしなかった。これらの人々の中に、ジーナがいたのである。ジーナの蔭餘堂に対しての興味はこの祝賀式から始まったものではない。1997年、11歳のジーナは自分が住んでいる町に中国の古い建築がやってくることを知り、埠頭に行っては貨物船から蔭餘堂の部品を入れた箱が降ろされるのを見ていた。蔭餘堂の木やレンガ、石の製品はすべてボストンまで輸送されたあと、アメリカの研究者グループの長年にわたる研究により、すでに制定されていた組み立て計画に基づいて移築が始められた。この計画は完全餘堂の中国での姿を再現するという原則を遵守するばかりではなく、移築過程における気候の差異による木・レンガ・石への破損も含まれていた。蔭餘堂の正式な移築作業が始まると、ジーナは毎日、放課後になるとその姿の変化を見に行った。2003年6月、蔭餘堂の組み立て工事が完成した。ジーナは自分の目でこの過程を見とどけたのち、徽州の古い建築に対して強い興味をもった。6月21日、ジーナは正式に蔭餘堂の内に入った。間近でこの古い建築を味わったのち、11歳の彼女はこの古い建築のふるさとに行きたいと強く望んだのであった。
その後の数年、蔭餘堂は黄氏の子孫を招待して、その建築の中で正月を迎えるイベントを行った。そして蔭餘堂をめぐる中国・アメリカ文化交流促進活動を何度も行った。
2007年の初め、アメリカのボストンのノースイースタン大学に通っていたジーナは、蔭餘堂の第二のふるさとセラーム市が、中国の休寧県黄村と友好都市になることを提案した。4月26日、セラーム市議会はこの議題のため、公聴会を開いた。ジーナは公聴会で演説を行い、彼女の演説はあらゆる議員を感動させた。全会一致でセラーム市と黄村との友好都市締結の決議は通過した。5月21日、ジーナは20人あまりの同級生を率い、この決議を持って、休寧県に行った。そして、アメリカ都市と中国の村との最初の友好都市締結は完成したのである。
ジーナは中国・アメリカ文化交流に突出した貢献を果たしたとして、休寧県黄村は彼女に「栄誉村民」の称号を授与した。これは中国では初めてのことだった。こののち黄村は、ノースイースタン大学の休暇期間に行われる社会考察活動の重要な地区となっている。
これらのアメリカ大学生は黄村に来ると、村民と共同で生活し、働く。食事も宿泊もすべて農家の中である。彼らはいくつかの小グループに分かれ、農民と一緒に鋤で畑を耕したり、雑草を抜いたり、茶を摘んだり、野菜を収穫したり、掃除をしたりする。黄村小学校で無料で子供に英語の授業を行ったりもする。数日後には、アメリカの学生は中国の村の畑仕事に熟練した。「私は中国の歴史を学んだがことがありますが、この体験の中から中国の長い歴史文化を感じることができたと同時に、中国人の勤勉さを知りました。このような労働を通じて、誰か知らん 盤中の餐 粒粒皆辛苦なるを』という中国の古い詩歌の意味を知ることができます」と、トムという男子学生は語った。「中国とアメリカはどちらも偉大な国で、どちらの国の人もみな親切です。ここの農民は友好的、情熱的、純朴で、文化はとても悠久で、空気もとてもきれいで一流です。ここではもっと多く呼吸できるように感じます」と、女子学生のリンゼイ・グレンソンとレイチェルは感慨深く語った
多くの観光客がやってくるため、村民は喜びのあまり、観光業を営み始めた。彼らは自分の土地を離れずとも多くの収入を得ることができるようになり、地元文化の大切さを認識し始めた。それは建築を含む地元文化の保護を促進した。